ポール 室山 著
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「9/11テロとアメリカの選択」
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"9/11 Terrorism & America's
Choice"
(禁無断使用転載)
2005年7月
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「9/11テロとアメリカの選択」
目次
序章
第1章:ウサマ・ビン・ラーデインと9/11テロ
第2章:アフガニスタンのタリバン攻略
第3章:サダム・フセイン打倒
第4章:ブッシュの外交理念とネイタン・シャランスキー
第5章:「9/11テロ国家調査委員会」の明らかにしたもの
第6章:イラク戦争反対を掲げて敗れた民主党のケリー候補
第7章:ネオコンサーバテイブズの系譜とブッシュ政権への影響
第8章:ブッシュの世界ビジョンとレアルポリテイーク
第9章:ブッシュ外交の限界
あとがき
参考文献
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序章
2001年9月11日に米国の歴史を変える出来事が発生した。ウサマ・ビン・ラーデイン(Usama Bin Ladin)率いる国際テロリスト集団アルカイダ(al Quaeda)の活動家19人がアメリカの航空機4機を同時にハイジャックし、ニューヨークの世界貿易センター・ビル2棟とワシントンDCの国防総省本部ビルに体当たりで突っ込むというあり得ない大規模テロが起こったのだ。
最初の航空機が世界貿易センター・ビル北棟に突っ込んだのは午前8時46分、2機目が南棟に突っ込んだのは9時3分、3機目が国防総省に突っ込んだのは9時37分頃であった。
当日私はいつものようにワシントンDCの連邦議事堂から1ブロック真南にあるビルの自分のオフィスで仕事をしていた。その日朝、妻のジャネットは国際会議の仕事のため朝6時過ぎには我家を出、午前9時ワシントン郊外のダレス空港発の航空機でカリフォルニア州ロスアンジェルスに向かっていた。「ああ、もう飛び立った頃だろう」と思いながら日刊リポートを書いていた。9時40分頃であったろうか、オフィスの電話が鳴り受話器を取り上げるとボルテイモアの友人レイチェルからだった。「ハロー、ハウ・アー・ユー?」と応えると、何時に無い早口で「今ハイジャック機が国防総省に突っ込んだとニュースが言っているわ。あなた大丈夫? 他にもハイジャックされた航空機があってワシントンに向かっているとも伝えているわ。ニューヨークの世界貿易センター・ビルも燃えているのよ。」「本当?」と私が尋ねると、「本当よ。テロリズムだっていうの」と彼女。「それは知らなかった。すぐテレビをつけてニュースを見てみる。ありがとう。」
テレビをつけると画面に映ったのは激しい火柱と黒煙をあげて燃え上がるニューヨークの世界貿易センター・ビルの2棟であった。ビルの火柱は高層ビルの上部4分の3あたりのところから噴き出しておりますます上層階に上ってゆく。上層階ではまだ窓から手を振って助けを求めている人々が見える。勿論誰もどうすることもできない。5分ぐらい経つとテレビ局は2機目の航空機が南棟ビルに体当たりで突っ込んだ瞬間のビデオを映し出した。晴天の中をビルに向けて一直線で飛ぶ航空機が見事にビルに突き刺さり航空機の両翼の形の穴を開けてビルの中に呑み込まれていった後日有名になった画像であった。ビルに消えると同時にビルの反対側から衝撃で飛び出したビルの破片が飛び散り、同時に航空燃料に一気に火がついて大火災が発生する。生まれて初めて見る衝撃の画面であった。テレビは再び大火災の貿易センター・ビルを映し出す。火の勢いはとどまるところを知らない。
テレビのニュースが、ハイジャックされたまま行方不明になっている航空機の情報を知らせている。午前9時ダレス空港発ロスアンジェルス行きのユナイテド航空機かアメリカン航空機で、ペンシルバニア西部で消息をたったまま行方がわからなくなっているという。既に国防総省に1機突っ込んだので、この航空機もワシントンに向かっている可能性が強いという。私はまさか自分の今いるビルが危ないとは思わなかったが、しかしそこで心配になってきたのは妻のことだ。ダラス空港9時発のユナイテド航空機といったらそれは妻の搭乗している航空機ではないだろうか。妻にはうっかり航空会社の名を聞くのを忘れていた。もしそうだったら、、、、私は突然背筋が震撼する思いをした。どうしたらよいか。そうだ、ユナイテド航空に電話して事実を確かめよう。しかし電話は使用中のビープが鳴り続けるだけで全く通じない。そのうちにテレビが、4機目はペンシルバニア西部で墜落したと報じ始めた。まだユナイテドかアメリカンかが確定できないでいる。私の心配もつのる。
ニューヨークの世界貿易センター・ビルの大火災はもはや手のつけられない状態のまま黒煙を空高く吹き上げている。この情景が近くから、またハドソン川を隔てたニュージャージー州の対岸からテレビカメラで映しだされている。ビルの上層階にいる人々は残念ながら逃げる場がなくなり、苦しさのあまり死を覚悟でビルの窓から飛び降りる人々の姿も見える。「これはひどい」と思いながら見ていると、間もなくビルの1棟の大火災の中心部の外側の鉄筋が突然押しつぶされるように下の方に沈み始めた。殆ど時を置かずにビルの外側全体の鉄筋が自壊を始め、ビルの上層部分がそのまま下に勢いを増して沈んでゆく。「ああー」と思わず声を上げる間にビルは上層部の重圧に押しつぶされるように一気にもろくも自壊してしまった。コンクリートとガラスと土の巨大な土ぼこりが巻き起こり、駆け足で逃げようとする通りの人々に背後からおおいかぶさってゆく。この映画のような出来事が生中継でテレビ画面に映し出されているのだ。10時15分頃であったろうか。とても信じられない出来事の連続で呆然とするばかりであった。「もうひとつのビルはどうだろう、危ないのではないか」と見ているとやはりその20分後には自ら激しく崩れ落ちた。米国金融王国のシンボルがまさに崩壊した瞬間であった。
妻のジャネットが同乗の乗客の携帯電話を借りて私に電話をしてきたのは午前11時30分を過ぎてからであった。「今、シンシナチにいるわ。強制着陸させられたけれども、テロリズムか何かがあったの? アメリカ全土で航空機がすべて強制着陸させられたらしいので、ロスにゆくことは勿論、ワシントンに戻ることも簡単にできそうにないわ。でも乗客の何人かがレンタカーを借りてワシントンに戻ると話しているから、私もそれに乗せてもらって帰ろうと思っているの。ボルチモアで降りなければならないようなので、ボルチモアまで迎えに来てくれる?」「勿論、勿論。でも本当によかった。ハイジャックされた1機がダレス空港発ロスアンジェルス行きのユナイテド航空機と最初発表されたので同じ飛行機かと思って本当に心配した。ユナイテド航空には電話が全く通じないし、どうしようもなかった。ユナイテドではなくてアメリカンらしいとあとで報道されて少し落ち着いたが、この声を聴くまでは安心できなかった。本当によかった。」
* * * *
9月11日朝ブッシュ大統領は、夏前に成立したばかりの初等中等教育改革法("No Child Left Behind Act")の振興のため、フロリダ州サラソータのエマ・ブッカー小学校を訪れていた。9時過ぎ講堂で先生が児童を前に本の朗読をするのを隣で聞いていたブッシュ大統領に、アンドリュー・カード首席補佐官が背後から歩み寄りそっと耳打ちした。「2機目の航空機が世界貿易センタービル南棟に突っ込みました。アメリカが攻撃されました。」このニュースを聴いたブッシュ大統領は、とても信じられないという呆然とした表情を見せた。アメリカが攻撃されたとのよもやのニュースで、今後の対応をとっさに考えることなどできなかったに違いない。
ブッシュ大統領は日程を切り上げて「今ニューヨークとワシントンがテロリストの攻撃に遭ったということを聴いた」という短いメッセージを残して午前9時30分にそこを去った。ブッシュ大統領は大統領専用機に飛び乗って即刻、安全保障関係閣僚の待機するワシントンに戻ろうとする。しかしワシントンのホワイトハウスの地下の緊急司令室(Situation Room)で指揮をとるチェイニー副大統領は電話で、ブッシュ大統領がワシントンに戻ることを押しとどめる。第4のハイジャック機がホワイトハウスあるいは連邦議事堂に突っ込むことが心配されていた。また他の民間航空機がハイジャックされてワシントンに向かっているという噂も流れていたからである。チェイニー副大統領はこの時ブッシュ大統領から、民間航空機がワシントン市内のビルに突っ込もうとした場合に、戦闘機がその民間機を迎撃してもよいという許可を得る。チェイニー副大統領の元には、大統領専用機「エアフォース・ワン」が危ないとの情報もあった。
ブッシュ大統領一向を乗せた大統領専用機はワシントン行きを断念して、取り敢えずルイジアナ州のバークスデイル空軍基地に着陸して給油をおこなう。ブッシュ大統領を安全な場所に避難させるために更に次の行き先がそこで検討され、安全な場所として、米国に配備されている核兵器のすべてを管理するネブラスカ州のオファット空軍基地が選ばれた。専用機は早々にネブラスカに向けて飛び立つ。専用機がオファット空軍基地に着陸したのは午後3時過ぎであった。ここでブッシュ大統領はテレビ電話でホワイトハウスとつなぎ、チェイニー副大統領、ラムスフェルト国防長官、テネットCIA長官、ライス国家安全保障補佐官らと初の国家安全保障会議を開くことができたのである。パウエル国務長官はまだ、訪問先のコロンビアからワシントンに戻る途上にあった。
シークレット・サービスは安全のためブッシュ大統領が同日夜は同基地に宿泊することを薦める。しかしブッシュ大統領はワシントンに帰ることを主張して譲らなかった。大統領専用機は午後4時頃同地を離れワシントンに向かった。ブッシュ大統領一向がホワイトハウスに戻ったのはその日の夕方6時30分過ぎであった。
* * * *
9月11日テロを歴史的にどう位置づけるかは一様ではない。これを一過性の大惨事と見做す見方がある。3000人近い死者を出す大惨事ではあったが、アメリカはこの悲劇を早く乗り切って、その後はそれを忘れて未来に向けて再び歩み出すべきだというのがその考え方である。このグループに属する人々は犯人のアルカイダ、特にウサマ・ビン・ラーデインを追跡してこのテロリスト集団を壊滅状態にさせる必要があることには賛成し、またアルカイダを逗留させ軍事訓練の基地を提供したアフガニスタンのタリバン政権を打倒すべきだという意見にも賛成する。だからブッシュ政権がアルカイダの後を追ってアフガニスタンを攻略しタリバン政権を一気に打ち倒したことは問題がないと考えた。しかしそこまでがアメリカの報復として実行すべきことで、その後は各国と協力しあってアルカイダの残党を捕縛し続ければよいというのがこのグループに属する人々の考え方であった。イギリスのブレア首相を除く欧州各国の首脳、特にフランスのシラク大統領やドイツのシュレーダー前首相などはそういう立場をとったと見なす事ができる。従ってその後ブッシュ大統領がイラクに軍事侵攻することには最初から最後まで強い反対をし続けた。イラク国民議会の総選挙が成功に終わってイラクが民主国家に再建されつつある現在でも、フランス、ドイツ、ロシアなどの国々は民主化再建に協力することを拒み続けている。
アメリカ国内でも同じ考え方を持つ人々が多数存在した。特にブッシュ大統領に政治的に対抗する民主党政治家の多くがこれと似たり寄ったりの立場を取った。彼らもイラク軍事侵攻に強く反対し、イラク占領後の反政府ゲリラ活動が激しくなるとイラク政策の失敗を厳しく追及するようになった。彼らは9/11テロは悲劇的な大惨事であったが、アフガニスタンのタリバンの掃討が終わった後、イラクに軍事侵攻したのは誤りだったと断じる。中には、アメリカがテロリストに狙われたのはアメリカに罪があるからだと言ってアメリカの過ちを責める人もいた。
しかしそれとは全く異なった立場を取ったのがブッシュ大統領とブッシュ政権であった。9/11テロはイスラム根本主義に根ざした国際テロリスト集団アルカイダの米国に対する大胆な挑戦であると見なした。9月11日を日本海軍の真珠湾攻撃と同じ「屈辱の日(The
Day of Infamy)」と呼び、国家の総力を上げてテロリズム戦争に立ち向かう事を決意した。テロリズムは局地的な問題でありCIAやFBIの司法当局の取り締まりによって解決できるというそれまでの考え方を完全に捨て去って、テロリズムを根絶するためには米軍を本格的に動かすテロリズム戦争に入る必要があると考えたのである。
**************************** 第1章 ***********************************
第1章:ウサマ・ビン・ラーデインと9/11テロ
9/11テロが発生する以前にもアルカイダの米国に対するテロは何回も敢行されていた。最初のテロリズムは1993年2月26日の世界貿易センタービル地下駐車場で起きた爆破事件であった。この爆弾テロの主犯はラムジ・ユセフ(Ramzi Yousef)というイラン・パキスタン国境出身のテロリストであったが、ユセフは国外に脱出してすぐには見つからなかった。しかし共犯のモハメッド・サラメー、アーマッド・アジャジなどを逮捕してゆくうちに、これらのテロリストがニューヨークのブルックリンにあるファルーク回教寺院(Farouq mosque)の指導者、盲目のシェイク・オマール・アブデル・ラーマン(Sheikh Omar Abdel Rahman)につながっていることが判明した。ラーマンはスンニー派のイスラム根本主義を唱える過激な指導者で、米国をイスラム教徒の敵と呼びニューヨークのランドマークへの爆弾テロを呼びかけていたのである。ファルーク回教寺院はビン・ラーデインが世界中に触手を伸ばしていたイスラム根本主義運動の精神的組織「キーファ(Khifa)」のメンバー回教寺院のひとつであったことも後になって明らかになってくる。
主犯のユセフはそれから2年後の1995年1月にフィリピンのマニラで太平洋航路の複数の航空機に爆弾をしかけようとしてフィリピン警察に阻止され、逃亡先のパキスタンで捕らえられる。このユセフにはカリド・シェイク・モハメド(Khalid Shaykh Muhammad)という叔父があり、このモハメッドはユセフのマニラでの爆弾テロの共犯者であり、以前からユセフにテロの資金供与をしていたことが1996年1月までに判明する。このモハメドはアルカイダの活動家の1人であった。このモハメッドこそがそれから5年半後に起きた2001年9月11日のテロを計画した主犯(マスター・マインド)になるとは当時は誰も予想すらできないことであった。
ウサマ・ビン・ラーデインが歴史に登場するのはアフガニスタンがソ連の侵略軍を追い出すことに成功した1980年代後半からである。ビン・ラーデインはアフガニスタンのイスラム根本主義指導者アザム(Azzam)と共にアラブ・イスラム諸国からソ連軍と闘う戦士ムジャヒデイーン(mujahideen)を募り、ソ連に対するイスラム根本派の「聖戦(jihad)」の勝利のために大きな貢献をした。ビン・ラーデインは1998年4月アフガニスタンからソ連軍を追放した直後にアザムと共に「アルカイダ」を形成する。将来の聖戦に備えた「基礎」「土台」にするちいう意味で「アルカイダ」の名前がつけられた。アザムが1989年11月に自動車爆弾テロで暗殺されてからは、ウサマ・ビン・ラーデインがこの組織のただ1人の指導者となる。
このビン・ラーデインがアメリカを「聖戦」の次の敵と見なすようになったきっかけは1991年の湾岸戦争であった。ビン・ラーデインはサウジアラビアにクウェイトをイラクから奪取することを進言し、そのためにアフガニスタンなどから戦士ムジャヒデイーンを集めることを申し出た。しかし、サウジアラビアの王室はそれを断って、イラクを軍事力でクウェイトから排除する計画を建てていたアメリカと組んだ。サウジアラビア内の軍事基地をイラク攻撃のために米軍に使用させることを認めたのである。ここからウサマ・ビン・ラーデインに、サウジアラビア王室などアラブ諸国の支配者に対する敵意と強い反米感情が生まれたと言われる。
アフガニスタンの成功で功名を遂げたビン・ラーデインはスーダンの指導者ハッサン・アル・トウラビ(Hassan al Turabi)に招かれ、1991年から96年までは主にスーダンを基地にしてアルカイダの組織を拡大してゆく。サウジアラビア、パキスタン、エジプト、ヨルダン、レバノン、イラク、オーマン、アルジェリア、リビヤ、チュニジア、モロッコ、ソマリア、エリトリアなどのイスラム過激派活動家・戦士を招いてスーダンで軍事訓練をおこない、アルカイダの軍事的力をつけてゆく。そればかりでなくチャド、マリ、ニジェール、ナイジェリア、ウガンダなどのアフリカ諸国、ビルマ、タイ、マレイシア、インドネシア、フィリピン、シンガポールなどのアジア諸国のイスラム過激派とも関係を広げてゆく。1996年からは再びアフガニスタンに戻ってタリバン(Taliban)の保護の下でアルカイダの訓練・組織拡大をはかった。この地下組織的なアルカイダの拡大は1990年代後半になるまでアメリカには殆ど知られなかった。アメリカがそれを知った時は、アルカイダは既に40ヶ国にまたがる怪物的組織に成長していたのである。
ウサマ・ビン・ラーデインとアルカイダの名を世界的に知らしめた最初の大規模な対米テロ事件は1998年8月7日ケニアのナイロビとタンザニアのダルエスサラームの米国大使館でを同時に狙った大爆破テロであった。ナイロビの爆破テロでは12人のアメリカ人大使館職員を含む213人が死亡し、5000人の負傷者が出た。ダルエスサラームの爆破テロでは現地人11人が死亡した。驚いたクリントン大統領はテロの2週間後に報復として、アフガニスタンのアルカイダの訓練基地と兵器製造工場と見られたスーダンの化学工場に巡航ミサイルで攻撃を加えてそれらを破壊した。しかし当時はクリントン大統領がモニカ・ルインスキーとの情事問題で議会に弾劾される政治危機に晒されてワシントンは騒然としており、アルカイダ基地に対する空爆はルインスキー・スキャンダルから大衆の関心を逸らすための政治的動機によって行われたと見る人が多かった。しかしこの爆破テロを契機にクリントン政権はウサマ・ビン・ラーデインとアルカイダが米国の無視することのできない敵であることを知ったのである。
アルカイダの米国を狙ったテロはその後も続いた。2000年10月12日、イエーメン沖に停泊していた米国海軍駆逐艦USSコール(USS Cole)を狙った爆破事件が発生した。貨物船と見せかけた小さな船が大量の爆薬を積んでコールの左船体に体当たりするという自爆テロを敢行したのである。船体に大きな穴が開き、乗組員17人が死亡、40人以上が負傷し、USSコールは航行不能になった。これもアルカイダの仕業であることは時間を置かずに明らかになった。しかしクリントン政権は既に残り半年足らずとなっており、即座に充分な対応をとれないままホワイトハウスを去った。引き継いだブッシュ政権も事情をよく理解せず、米国はこの爆破テロに対しては結局報復行動を取らないままで終わった。
こうした9/11テロ以前のテロに対するクリントン政権とブッシュ政権の対応は常に限定的であった。テロ事件は「犯罪」に過ぎないと見なし、FBIとCIAがテロの犯人を捜査捕縛すれば済む問題と考えていた。すなわちテロリズムは「司法の問題」に過ぎないと見ていたのである。クリントン大統領自身はCIAのスパイ活動を通じてアルカイダという国際テロリスト集団の規模が急速に拡大していることを知り、放置しておけば米国への危害も大きくなるという危機感を90年代の終わり頃までには持つようになった。クリントン大統領は98年以降の何回かの演説で国際テロリスムの米国に対する脅威を繰り返し的確に指摘した。問題は、ルインスキー・スキャンダルで下院の弾劾を受け信用を失ったクリントン大統領が幾らアルカイダのテロの脅威を訴えてもその言葉を信じるアメリカ人が殆ど存在しなくなっていたことである。
1996年以降はCIAのテロリズム監視部局がウサマ・ビン・ラーデインとアルカイダの動きをかなり正確に把握していた。しかしジョージ・テネットCIA長官などCIAの幹部、並びにサンデイー・バーガー国家安全保障補佐官を中心とする国家安全保障協議会のメンバーはそうしたCIA専門官の情報と分析を正当に評価せず、それを正面から取り上げないまま時間が過ぎた。要するにテロリズムを米国の安全保障の本当の脅威とは見なさなかったのである。
これは2001年1月ブッシュ政権が誕生した後も同じことであった。政権交代にもかかわらず実際には、テロリズム関連の高官、専門官の殆どはクリントン政権の陣容がそのまま引き継がれた。テネットCIA長官以下のCIAの幹部の殆ど、フリーFBI長官以下FBIの幹部、ホワイトハウスのリチャード・クラーク反テロリズム・コーデイネイター、国防総省のシェルトン参謀総長などがそのまま残り、従ってテロリズム情報や対応策などもクリントン政権当時のままであった。これらのクリントン政権の高官の残留はライス国家安全保障補佐官などブッシュ政権高官の要請したものであった。
ブッシュ大統領は就任後毎朝8時から30分間、テネットCIA長官からのスパイ情報のブリーフィング(Presidential Daily Brief=PDB)を受ける。これには通常チェイニー副大統領、ライス安全保障補佐官、カード首席補佐官なども同席した。ブリーフィングの中には当然ウサマ・ビン・ラーデインとアルカイダの情報も入っていた。しかしブッシュ政権はクリントン政権とは別の外交政策プライオリテイを持っていたこともあり、ホワイトハウス高官は当初ビン・ラーデインとアルカイダの脅威には充分な関心を払わなかったように見える。ブッシュ政権はアルカイダという国際テロリスト集団への警戒を明らかに怠っていた。そこに9/11テロが起こったのである。
アルカイダの9/11テロで度肝を抜かれたブッシュ政権は、殆ど時間を置かずに、米国に対するテロリズムはもはや「司法の問題」ではなく米国に対する重大な「軍事的挑戦」であるという立場に転換した。アルカイダの米国に対する挑戦を打ち砕くためにはFBIやCIAの力だけでは全く不十分である、アルカイダを崩壊させるためには軍事力を使う以外にないと即断したのである。これは国家を挙げてのテロリズムに対する戦争、すなわち「テロリズム戦争」であると定義づけた。アルカイダのような国際的なテロリズム組織を崩壊させるためにはテロリスト組織だけを叩いても根絶はできないとの判断から、そういうテロリスト集団を逗留させ(harbor)支援する国々もテロリスト集団と同罪に扱うという考え方(後にブッシュ・ドクトリンと呼ばれる)を採用した。9/11テロに関して最も明らかな同罪国はアルカイダに軍事訓練基地を提供しアルカイダのテロリストをかくまっていたアフガニスタンのタリバン政権であった。そこからまず、アフガニスタンのタリバン政権を打倒するという目標が設定されたのである。
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第2章:アフガニスタンのタリバン攻略
9/11テロがブッシュ大統領にどれほどの衝撃を与えたかは想像に難くない。自分が宣誓した大統領の最も重要な任務、「アメリカ合衆国を敵から守る」という任務を果たせなかったのを一番よく知っていたのはブッシュ大統領その人であったはずである。ウサマ・ビン・ラーデインとアルカイダのテロの脅威は前政権からの引き継ぎや、テネットCIA長官のブリーフィングなどで繰り返し聞いていた。もう少し早めに対策を講じていれば9/11テロは未然に防げたかも知れない。しかし、そういうことをいくら反省してみても、テロが発生してからでは何もならなかった。
9/11テロの翌日9月12日から17日にかけてブッシュ大統領は毎日国家安全保障会議を開いて、テロの犠牲者遺族の補償、新たなテロを防止するための緊急対策、アルカイダへの報復軍事作戦などを協議する。途中14日午後にはまだ消火も完全には終わっていないニューヨークの世界貿易センタービル崩壊現場を訪れ作業員を激励、犠牲者家族とも対面した。15日と16日はキャンプデイビッド山荘の国家安全保障会議でアルカイダとアフガニスタンのタリバンに対する報復軍事作戦が練られた。もともとは内政型の大統領として誕生したブッシュ大統領が米国の危機に直面して、国家の最高責任者として、また軍の最高指揮官として、これまでにない指導力を発揮してゆくのはこの辺りからである。
当初は報復の対象としてイラクも考えられたが、当面はアフガニスタンのアルカイダ訓練基地とタリバン政権に的を絞った報復攻撃の準備を進めることで関係閣僚間のコンセンサスができたのもこの頃である。同時に、アルカイダというテロリスト集団だけでなく、テロリスト集団を逗留させ支援するホスト国に対しても報復攻撃をおこなうという、いわゆる「ブッシュ・ドクトリン」もこの過程で明確になってゆく。ブッシュ大統領はアッシュクロフト司法長官には、議会に対してテロリスト容疑者捕縛を容易にするためのFBIの権限強化を求める法改正を要請することを指示し、ラムスフェルト国防長官には海外の米国大使館や米軍事基地をテロ攻撃から守るための緊急措置を講じることを指示し、パウエル国務長官にはアフガニスタンのタリバンに対してウサマ・ビン・ラーデイン以下すべてのアルカイダのメンバーを即刻アメリカに引き渡すよう要求することを命じる。
ブッシュ大統領は9月20日、議会の下院本会議場で、9/11テロ発生後初めての演説をおこなう。アルカイダなどのテロリスト集団の米国に対するむき出しの攻撃に対して米国市民が一丸となって立ち上がることを求め、相手の姿もはっきり見えないこのテロリズム戦争が長い時間のかかる忍耐を必要とする戦争であることを警告し、ブッシュ政権がテロの再発を防ぐために可能な限りの施策をとることを約束する。また9/11テロの犠牲者には連邦政府が多額の補償金を支払うことを約束する。更に、9/11テロの犯人であるアルカイダを逗留させ支援するアフガニスタンのタリバン政権に対してはアルカイダのすべてのメンバーの即時引き渡しの最後通諜を突きつけ、世界各国に対してはこのテロリズム戦争に参加するかしないかの選択を迫る。歴史に残る重要な演説であった。
演説の次の日からのブッシュ政権はアフガニスタンのタリバンとアルカイダの攻撃計画の作成に全力を注ぐようになる。1日も早く攻撃に入りたいと急がせるブッシュ大統領と、軍事攻撃のためには物理的な準備期間が必要であるとする国防総省とが攻撃の日程を巡って行きつ戻りつの応酬を繰り返した期間である。アフガニスタンの軍事行動の鍵となる役割を果たしたのは、既に数年前からアフガニスタン北部の軍閥との関係を開拓してきたCIAであった。CIAはスパイ工作員をアフガニスタンに再度送り込んで、北部同盟(Northern Alliance)の軍事的協力を取り付けることを目指す。パウエル国務長官はパキスタンのムシャラフ大統領から米軍戦闘機がパキスタン領空を通ってアフガニスタンに入る領空内飛行権をとりつけ、またパキスタンのテロリズム戦争への全面的な支援協力の約束を得る。内陸国のアフガニスタンを攻略するためには、パキスタンが空と陸から米軍の行動に全面的な協力をすることは必須の条件と見られたのである。パウエル国防長官はまた、アフガニスタン北部における軍事行動を空から支援するためにはウズベキスタン、タジキスタンなどアフガニスタンの北の隣国の軍事基地を米軍機が利用できることが条件になるとみて、両国からその使用の了解を取り付ける。
国防総省はキテイーホークなどの空母や戦艦をアラビア海のパキスタン沖に送り込んで、戦闘爆撃機発進や巡航ミサイル発射の準備をする。またCIAと協力してアフガニスタンに足を踏み入れるために陸軍の特殊空挺部隊の派遣が計画された。米軍が通常の陸軍部隊を送り込む代りに、アフガニスタンの軍閥の構成する北部同盟を動かして、北部同盟をタリバン打倒の先頭に立たせ、CIAと米軍は主に後方支援や米軍機爆撃目標の指定と確認などに大きな役割を果たすという、これまでにない特殊な戦略が計画された。必ずしも準備が整ったとは言えない10月6日、ペルシャ湾上の米海軍艦船から発射された50発の巡航ミサイルと計40機の戦闘機・爆撃機を利用した空爆によってアフガニスタンのアルカイダとタリバンに対する攻撃は開始された。
中部から北東部にかけては3千メートルから4千メートル級のヒンドウー・クシの山々におおわれた険しい地形を持つアフガニスタンの軍事攻略は簡単ではない。米軍が大量の地上軍をアフガニスタンに送り込むことは最初から断念された。空からの爆撃にしても、多くの軍事拠点を持たないアフガニスタンでは爆撃の対象となる基地や施設そのものが非常に限られている。攻撃開始の初日に爆撃の対象となったのは、防空レイダー施設やアルカイダの訓練基地など僅か31個所に過ぎなかった。一般市民に多くの死傷者を出すような攻撃目標は最初からリスト外にはずされた。
それに代わって、90年代後半から北部の反タリバン軍閥との関係を少しずつ開拓してきたCIAがアフガニスタン攻略の先鋒になる。この段階でのテネットCIA長官の役割はラムスフェルト国防長官以上に重要であった。テネット長官の構築する戦略がそのまま米国の戦略となった。しかしそのCIAも、タリバンの本拠地カンダハルを中心としたアフガニスタン南部では殆どスパイ工作員も持たず、行動を起こすのに時間がかかった。南部は人口の65%を占めるパシュトウン族の居住区で、最終的にはパシュトウンの有力部族出身でパキスタンに亡命していたハミッド・カルザイ(元アフガニスタン大統領)をアフガン南部に送り込んで有力者を抱き込んでゆく。併せて陸軍特殊部隊を空から南部に送り込んで攻略をはかってゆく。
しかし期待した北部同盟の軍閥は米国が望んだように簡単には動き出さなかった。タリバン打倒で米国に協力することを約束しても、食料不足や武器弾薬の不足で軍閥は即座に行動を開始できるような状態になかったからである。また地上でのタリバン攻撃に先立って、米軍がタリバンの拠点に空から爆撃を加えてタリバンの軍事力を前もって削ぐことを要求した。CIAは数百万ドル単位の巨額の工作資金をそういった及び腰の軍閥にばらまいて、行動開始の時期を忍耐強く待つしかなかった。空からの爆撃も爆撃目標そのものの数が限られていたため、一通りの目標の破壊が終わると次の爆撃目標を探すことに苦労するようなありさまであった。かくして最初の軍事攻撃が一巡した10月中旬を過ぎると、国防総省でもホワイトハウスでも、アフガニスタンでの軍事行動の今後に懐疑的なムードが漂うようになった。
こうしたムードが消えて再び楽観的なムードが出てくるのは北部同盟の軍閥が本格的に動き出す11月初めになってからである。軍事拠点や北部の都市を一つ一つタリバンから奪っていった北部同盟は、11月中頃までにはアフガニスタンの北の半分を支配下に置き、15日までには首都カブールを攻略してのタリバンやアルカイダの残党を東部のパキスタンとの国境の山地トラ・ボーラにまで敗走させ、カブールを奪取することに成功する。それから3週間後の12月7日には南部に進入した米軍特殊空挺部隊とカルザイ率いるパシュトウンの反タリバン勢力がタリバンの本拠地カンダハルを攻略、タリバンの宗主モハマッド・オマールを敗走させることにも成功した。かくして12月中頃までには北部同盟と南部のパシュトンの勢力がアフガニスタンの全土を掌握するに至った。
ウサマ・ビン・ラーデインを含むアルカイダの主な勢力はパキスタン国境のトラ・ボーラの3千メートル級のホワイトマウンテン山中に逃げ込んだ。米軍特殊山岳部隊は空軍の爆撃の支援を受けながらその後1ヶ月近くトラ・ボーラの攻撃を続ける。多数のアルカイダの戦士、幹部がこの闘いで死亡した模様であるが、しかしウサマ・ビン・ラーデインやナンバー・ツーのアイマン・ザワヒリなどのアルカイダ幹部は山地をつたってパキスタン側に逃れたと信じられている。タリバン宗主のモハマッド・オマールもアフガニスタン南西部の山岳地帯の辺境に逃げ込んだと信じられており今日までその行方が知られていない。
9/11テロからアフガニスタンのタリバンとアルカイダが崩壊する3ヶ月足らずの間はあらゆる意味でブッシュ大統領とその政権がテストを受けた時期であった。国家の危機に直面して大統領が如何なる決断をし如何なる行動を起こすかは国の将来に決定的に重要な意味を持つ。
英語に "rising to the occasion" (難局に対して立ち上がる)という言葉があるが、ブッシュ大統領はまさしく、難局にあたって見事に立ち上がり米国を率いて行ったと言うことができる。大統領になった人物なら誰でも同じような指導力を発揮するという意見があるかも知れないが、比較は別にして、ブッシュ大統領の対応は非常に立派であった。だから国民の殆どがブッシュ大統領を支持した。10月中旬には世論調査でブッシュ大統領の支持率は前例のない90%の高さを記録した。
しかしブッシュ大統領が「自由」と「民主主義」を世界に広めるという米国の外交政策を当時はっきり持っていたかというと、そうではない。ブッシュ大統領が現在の外交政策に到達するまでにはその後幾度かの「進化(evolution)」があったことを認めなければならない。
9/11テロを経験したブッシュ大統領は、米国を将来のテロリズムから保護するためには、テロリスト集団のみならずテロリストを逗留させる国々をも叩く必要があると考えた。しかし、最初の問題国アフガニスタンのタリバン政権を追い落とした後、そのまま米軍を引き揚げて、あとの処理は北部同盟の軍閥やパシュトンの長老達に任せるという訳にはゆかなくなった。タリバンに代わって民衆を代表する政権を作らないとアフガニスタンは内戦状態のままで、再びテロリストの温床となる可能性が高かったからである。そこからアフガニスタンの国家再建、「国造り」に協力するという考えがでてきた。
米国が手を貸して造る新しい政権は当然のことながら国民の選挙によって選ばれた民主的な政権でなければならない。しかしただちに選挙をおこなうことは不可能だったため、2001年12月末にパシュトン族の名門で南部の攻略を敢行した親米派のハミッド・カルザイを暫定政権の代表に擁立した。その後カルザイの下で新憲法を起草し、憲法を定めた上で、2004年10月、憲法に則って大統領選挙が行われカルザイが当選、彼が正式に初代のアフガニスタン大統領となった。アフガニスタンの治安維持と再建には2万人の米軍ばかりでなく、NATOからも1万人の派兵を要した。しかし900万人を越えるアフガニスタンの男女有権者が投票した大統領選挙は大きな成功だったと見なされている。
アフガニスタンの民主化には成功したが、これによって他のイスラム諸国、アラブ諸国がドミノ式に民主化してゆくだろうという期待感は少なかった。ブッシュ大統領も、アフガニスタンを中東諸国の民主国家のモデルケースにするという言い方をすることは殆どなかった。イスラム諸国、アラブ諸国の民主化のモデルケースにすると言い始めたのはやはりイラクの民主化努力を始めてからであり、それも比較的最近になってからのことである。イラクの経験がなかったならば、ブッシュ大統領の現在の外交政策に至る進化もなかったと考えられる。
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第3章:サダム・フセイン打倒
ブッシュ大統領が9/11テロ直後から、アフガニスタンのタリバン打倒の後、イラクのサダム・フセイン政権の打倒を視野においていたことはまず間違いない。それはチェイニー副大統領、ラムスフェルト国防長官、ウオルフォビッツ国務副長官などの進言によるばかりでなく、ブッシュ大統領自身が父親の遣り残した仕事をいつかはやり終えたいという願望を持っていたからである。サダム・フセイン大統領は湾岸戦争後の1994年、クウェイトを凱旋訪問したブッシュの父親の41代ブッシュ大統領の暗殺を企てたことがある。チェイニー副大統領は91年の湾岸戦争当時国防長官として、米軍をバグダッドまで攻め上らせてサダム・フセイン政権を崩壊させることを進言したが、41代ブッシュ大統領、スコウクロフト国家安全保障補佐官、パウエル参謀総長などの反対に遇って望みを果たせなかった。ウオルフォビッツ国防副長官はラムスフェルト国防長官、リチャード・パール元国防次官補などと組んで1990年代を通してサダム・フセイン大統領の安全保障上の脅威をバーガー国家安全保障補佐官などクリントン政権高官に訴え続け、軍事力によるフセイン政権追い落としを進言していた。
サダム・フセイン大統領が9/11テロに直接関係したという証拠は見つからなかった。9/11テロ主犯のモハメッド・アッタが2001年4月9日にチェコスロバキアのイラク大使館でイラク諜報機関員と会っていたという情報はあったが、それは立証できないままであった。しかしイラクは、ブッシュ大統領が定義した「テロリストを支援し逗留させる国」のひとつであることには間違いがなかった。湾岸戦争以来の経緯もあり、アフガニスタンの後はイラクに照準を当てるというのは、ブッシュ大統領と安全保障関係閣僚にはごく自然なことであった。
9/11テロ発生からイラク軍事攻撃開始に至るまでのブッシュ大統領とブッシュ政権内の動きを大統領や閣僚へのインタビューに基づいて再構築したボブ・ウッドワードの「攻撃計画("Plan of Attack")」によれば、ブッシュ大統領はアフガニスタンのタリバン打倒にほぼ目処のついた2001年11月21日にラムスフェルト国防長官にイラクに対する軍事攻撃の戦争計画の作成を極秘に開始することを命じている。この計画立案は米国中央軍(Central Command)の司令長官だったタミー・フランクス将軍が中心になって進めた。
その年の12月28日、テキサス州クロフォードの広大な所有地で休暇中のブッシュ大統領とワイオミングのチェイニー副大統領、アリゾナのラムスフェルト国防長官、ワシントンのライス国家安全保障補佐官、パウエル国務長官、テネットCIA長官をテレビ電話で結んだ国家安全保障会議が開かれ、フランクス将軍による攻撃計画案の最初のブリーフィングが行われた。ここから、国家安全保障会議のメンバーの間では、イラク攻撃の計画が作られつつあることは既成事実化していった。2002年1月29日の年頭議会演説でブッシュ大統領はイラクを名指しで激しく非難したが、これができたのもイラク軍事攻撃の具体案が既に出来つつあったからだとブッシュ大統領は後日告白している。「悪の枢軸国」に北朝鮮とイランを加えたのは、イラク軍事攻撃の計画を作り始めたことをかぎつけた一部の報道関係者の関心をイラクから逸らす狙いがあった。
フランクス将軍はその年の4月頃までには実行可能な攻撃計画をほぼ作成し終り、ブッシュ大統領とラムスフェルト国防長官を満足させている。イラク侵攻に要する10万5千人の陸軍と海兵隊の兵士、戦車、装甲車、兵火器、弾薬、食料、生活必需品などをまずクウェイトに送り込む。空母3隻とトマホーク巡航ミサイル発射のため米艦隊をペルシャ湾に集結させるためには、準備期間に6ヶ月を要する。また領空内飛行権獲得など周辺国の協力を取り付ける外交にも同じような時間を要する。従って軍として戦闘開始準備が済むのは早くても2002年10月以降になる。しかし他方で、真夏には日中の最高気温が華氏120度を越えるというイラクの厳しい気候を考えた場合、攻撃は遅くても2003年2月末頃までには開始する必要がある。これがフランクス将軍のイラク攻撃計画の日程の大枠であった。実際に、戦闘の準備はその頃から、米国民も国際社会にも殆ど気づかれないような極秘の形で開始されるのである。
こうした隠された一方的なイラク攻撃準備に最初から一貫して反対する立場を取ったのがパウエル国務長官であった。パウエル国務長官は9/11テロとイラクとの関係を明白に証拠づけられないままで米国がイラク攻撃を開始した場合には、米国は国際社会から孤立しかねないと心配した。そのため、イラクの攻撃に入る前に国際社会の支持を如何にして取り付け、如何にして同盟国を増やすかに心を砕いた。軍事攻撃に入る前に可能な限り外交的解決努力をすべきであるという立場をとって、米国の先制攻撃の権利を主張するチェイニー副大統領、ラムスフェルト国防長官などと鋭く対立した。
2002年8月5日パウエル長官はホワイトハウスでブッシュ大統領と2人だけで会う機会を持った。この席でパウエル長官は、イラク攻撃を決める前にこれを国連安保理事会に持ち込むようにブッシュ大統領を説得した。9月12日に予定されていたブッシュ大統領の国連総会での演説は、イラク問題で国際社会からの支持を取り付けるための絶好の機会になると主張しブッシュ大統領うぃ説き伏せた。
ブッシュ大統領が折れたことにより、最終的にはチェイニー副大統領、ラムスフェルト国防長官、ライス国家安全保障補佐官もパウエルのこの意見に一応賛成するようになる。パウエル長官の演説原稿にチェイニー副大統領などの意見が加味されて、ブッシュ大統領の国連演説が作成された。それは、イラクの大量破壊兵器製造保有は国際安全保障上の脅威である、国連はイラクに対して1991年以来16にのぼる安保決議を採択してイラクの大量破壊兵器廃棄を迫ってきた、しかしサダム・フセイン大統領はそれに従わずそれを無視し続けてきた、9/11テロの経験を鑑みるとそういうサダム・フセインをこれ以上放置しておくことはできない、もし国連がイラク制裁決議を採決するだけでそれを強制できないままなら国連の存在価値が疑がわれることになる、これは国連自体の信用の問題でもある、という基調であった。
ブッシュ大統領は予定通り9月12日にこの国連演説をおこなった。この演説は大きなインパクトがあり、信用を問われた国連はイラク制裁に向けて動き出した。
しかしチェイニー副大統領やラムスフェルト国防長官はもともと国連という国際組織を全く信用していない。イラク攻撃の決定を国連の判断に任せることはイラク攻撃を断念するに等しいという警戒感を持った。米軍のイラク攻撃の極秘の準備も着々と進んでおり、攻撃をずるずる伸ばすことは全く米国の国益にならないと考え続けた。
国連安保理事会は11月始めにイラクの大量破壊兵器の捜索を強制する国連決議1441号を採択した。しかし予想通り、その後の兵器捜索は過去と同じくサダム・フセイン大統領の妨害を受け、スムーズに進まないまま年が明けた。
米英両国は国連決議1441号は、サダム・フセインが国連の要求に従わない場合には国際同盟軍が対イラク軍事行動にでることを既に容認していると解釈した。しかしフランスとロシアは、軍事攻撃を開始するためには、軍事攻撃をはっきり認める新たな国連決議案を採択する必要があると主張した。この新しい国連決議案をめぐって国連の安保理事会は割れた。チェイニー副大統領などが恐れていた国連によるイラク攻撃の際限のない引き延ばしが始まろうとしていた。
後になってからであるが、フランスとロシアがサダム・フセインのイラクに多額の経済権益を持っていたことが明らかになる。また国連が一般イラク人への人道的目的でサダム・フセイン大統領に許していた原油の限定的輸出許可プログラム(Oil for Food Program)をサダム・フセインが国際的な贈収賄に利用していたことが後日判明する。サダム・フセインは、フランスやロシアを含む世界中の国の270人に上る政府高官やビジネス関係者に割安の原油購入権を与えて、国連における影響力を維持しようとしていたと見られる。
2003年3月になっても、米英とフランス、ロシアとの対立は解けなかった。やむなくブッシュ大統領はイギリスのブレア首相との緊密な連携の上に、決議1441号がイラク軍事攻撃をも容認するとの解釈に立って軍事攻撃の最後の準備に入り、イラク時間で3月20日の未明に攻撃を開始する。
イラク攻撃に反対する国々が、米英は国連決議の一方的解釈により攻撃に入ったとの印象を持ったのはやむを得ないことであった。国連決議1441号の解釈をめぐるこの対立が和らぐのはそれから2年近くも経って、2005年1月30日のイラク暫定国民議会選挙が成功した後のことである。
クウェイトからイラクに入った米地上軍は攻撃開始から3週間足らずの4月9日にはバグダッドに到達した。程なくサダム・フセイン政権は崩壊し、フセイン大統領や息子のウデイ、クセイなどは逃亡の身となった。英国軍はそれより早くバスラを中心とした南部を制した。英同盟軍は僅か40日でイラク全土を制圧し、ブッシュ大統領は5月1日イラク沖からカリフォルニア沖に戻った米海軍空母USSエイブラハム・リンカーン艦上で「戦闘局面完了」の宣言をおこなった。
イラク攻撃に入る前、ラムスフェルト国防長官、ウオルフォヴィッツ副長官らは、イラクに侵攻した米軍はイラクの一般住民から「解放軍(liberator)」として花束と歓呼をもって迎えられるであろうと語っていた。それゆえ派兵する米軍はサダム・フセイン大統領とリパブリカン・ガードと呼ばれるイラク精鋭陸軍部隊を倒すに充分な兵力さえあればよいと見做した。「占領後のイラクの治安維持には数十万人の大量の米地上軍が必要だ」というシンセキ陸軍参謀長の意見などは全くのナンセンスであるとして退けられた。サダム・フセインの打倒後のイラクの再建はアーマド・チャラビのような国外に亡命していたイラク人がイラクに戻ってそれにあたるので、米軍の役割は限定的で済むとも考えていた。
他方、サダム・フセイン大統領が保有していると考えられた大量破壊兵器に関しては、CIAが「間違いなく存在する」と念押しをしていたこともあり、ブッシュ大統領・政府高官だけでなく議会の共和・民主両党議員も一般アメリカ人の殆どもまた全く疑いの余地のないものと想定していた。イラクに侵攻した米軍は生物・化学兵器の攻撃に備えて重装備をしていた。生物・化学兵器の攻撃はなかったものの、すべての関係者が大量破壊兵器の発見は「時間の問題」と思っていた。
しかしながらこの2つの予想は共に大きく狂った。イラク占領までは早かったが、バグダッドに侵攻した米軍が一般のイラク住民に「解放軍」として花束と歓呼をもって迎えられることはなかった。占領後サダム・フセインに代わって国を治めるような有力者は全く登場せず、イラクは完全な無政府状態に置かれた。一般住民の政府ビルなどへの略奪が長期にわたって続き、治安を回復できるのは駐留米英軍しかないことが間もなくはっきりする。
同時に、サダム・フセインの私的精鋭部隊フェデイーンの残党と見られる武装ゲリラの米英駐留軍に対する武力反抗や爆弾テロが次第に日常化するようになり、15万の米英軍は簡単に本国に引き揚げができるような状態ではなくなった。2003年8月19日にはバグダッドの国連事務所が大規模な爆弾テロに遭い、セルジオ・ヴィエイラ・デ・メロ代表が死亡する事件まで起きた。ブッシュ大統領は同年6月にはポール・ブレマーを行政長官としてイラクに送り込んで「強権」によるイラク再建に取り組まなければならなくなった。それと同時に、「解放軍」であったはずの米英軍はイラクの一般住民から「占領軍」と見なされるようになった。
米軍は1200人の兵士を大量破壊兵器を捜索するための兵力としてデイビッド・ケイ(David Kay)捜索団長の指揮の下に行動させた。しかし3ヶ月経っても6ヶ月経っても大量破壊兵器の痕跡すら見つからない。2003年の秋も深まるころから武装ゲリラや外国からのテロリストによる米英同盟軍に対する武力反抗が本格化し、米軍は大量破壊兵器の捜索に当てていた兵力の多くを再び治安維持の任務に戻さざるを得なくなった。
翌2004年の1月デイビッド・ケイ捜索団長は団長の職を辞することを発表した。彼は辞任に先立ち、イラクの大量破壊兵器は発見できない可能性が高いこと、サダム・フセイン大統領は90年代前半まで保有していた大量破壊兵器をある段階で廃棄したと見られること、あるいは残っていてもそれはシリアなど隣国に運び去られてしまった可能性が高いこと、1998年12月から国連兵器査察団がイラクに入国できなくなってからもサダム・フセイン大統領が大量破壊兵器の製造を再開した痕跡はなかったこと、発見したのは「将来機会あれば大量破壊兵器製造を再開したい」という意思だけであったことなどを議会の公聴会や一連の公の席で公言するようになった。兵器捜索団長はすぐチャールス・ダルファーに引き継がれたが、2004年2月末までには、イラクで大量破壊兵器が発見されることを予想する人は米国にも国際社会にもほとんどいなくなった。米軍がイラクに侵攻した時点ではサダム・フセインは既に大量破壊兵器を所有していなかった可能性が強いということである。
これはブッシュ大統領に大きな国際的問題を引き起こすことになった。国連を舞台にイラク攻撃の議論を展開した際の最後の攻撃の根拠はイラクの大量破壊兵器の所有ということであり、イラクが国際安全保障上の脅威であるということにあった。大量破壊兵器を発見さえ出来れば、米英軍のサダム・フセイン打倒は充分に正当化できるはずであった。ところが、その大量破壊兵器が攻撃開始の段階で既にイラクに存在しなかったということなると、一体なぜイラクを攻撃したのかの理屈の通った根拠がなくなる。
このため、イラク攻撃は現今の国際社会では許され難い侵略行為と見なされかねないことになった。実際に米国の軍事行動に反対した多くの国々は、ブッシュ政権の決断をそういう侵略行為として非難した。ブッシュ大統領とブッシュ政権は兵器捜索が未だ完全には終わっていないことを理由に、「大量破壊兵器はまだこれから発見される可能性がある」「シリアなどに運び出された可能性もある」「大量破壊兵器のひとつである国連決議違反の長距離ミサイルは実際に存在した」という弁明を繰り返して防戦にあたった。しかし核兵器や生物・化学兵器などの大量破壊兵器が現われ出ないという現実は如何ともし難いものであった。
大量破壊兵器の発見に失敗したブッシュ大統領とブッシュ政権は、大量破壊兵器以外に何らかのイラク攻撃を正当化できる根拠を捜し求めなければならなくなった。
大量破壊兵器の発見が絶望的になった直後の2004年の3月末からゲリラ/テロリストの武力反抗が急激に拡大し、それまでのスンニー派居住区での激しい反抗に加えて、イラク南部のシーア派居住区の幾つもの都市でモクタル・アル・サドル率いるシーア過激派の武装蜂起が起こり、米駐留軍は一時四面楚歌の状態に置かれた。更には数千人のイラク人ゲリラ/テロリストを収容していたアブ・グレイブ刑務所で米兵看守がイラク人捕虜を虐待していた事実が写真入りで大々的に暴露されるに至って、米軍の国際的信用は大きく揺らいだ。
ブッシュ政権は既に2003年末までの段階で、2004年6月末を目処にイラクの主権をポール・ブレマーの連合統治機構(Coalition Governing Authority)からイラク人の暫定政府に返還委譲するという日程を決めていた。それは2004年秋のブッシュ大統領再選のためにはイラクの混乱はプラスにはならないと判断したロウヴ大統領補佐官などが、できるだけ早くイラクから手を引いてブッシュ大統領をイラク問題から解放する方が得策と考えたからである。すなわち、国内政治の要請から、イラク問題でいつまでももたもたしていてはいけないと判断したのである。
ゲリラの武力反抗が激しくなった2004年4月初めからは、それまでにも増して6月30日の政権移譲の日程が重要なものとなった。幸いイラク人がブッシュ政権の期待によく応え、6月1日には早々と、ヤワル暫定大統領、アラウィ暫定首相を核とするイラク暫定政権を成立させることに成功、予定より早い6月28日には連合統治機構のブレマー行政長官がヤワル/アラウィ暫定政権に統治権を返還委譲することが可能となった。政権委譲は華やかな式典は全くない例外的に簡素なものであった。政権移譲により、イラク人による政権を国民の前に立てることができるようになり、米英同盟軍は占領軍であるとの印象を弱めることが可能になった。また国内的には、ブッシュ大統領はイラクの負担を軽くした上で秋の大統領選本選に臨めるようにもなった。
ブッシュ大統領がイラクに民主的政権を樹立させて、それを中東、アラブ地域全体の民主化のモデル・ケースにしたいと言い出したのはこの頃からである。ブッシュ大統領を次期大統領候補として再指名する共和党全国大会は8月29日から4日間ニューヨークのマデイソン・スクエア・ガーデンで開催される予定になっていた。ブッシュ大統領は大会の大統領候補指名受諾演説に向けて、イラクに関しても前向きの明るい展望を必要としていた。イラクの民主化を中東イスラム諸国全体の民主化の導火線としモデルケースにしたいという発想はそういう政治的背景から生まれた。そしてそれはまた、イラクに軍事侵攻しサダム・フセイン政権を倒したことを正当化するための理想的な理由ともなった。
「大量破壊兵器は見つからなかったが、サダム・フセイン政権を崩壊させその独裁体制を取り除いたのはイラク人にとってもアメリカにとっても世界にとっても非常に良いことであった。近い将来イラクにはイラク国民によって選ばれた民主主義的政権が誕生する。それが成功すれば、今まで近代史から取り残され独裁制が旧態依然として残っていた中東イスラム地域に民主主義国家のモデルをつくることができる。イラク、アフガニスタンを導火線にして、中東イスラム諸国にも民主主義の波を広げることができる。アメリカの世界史的役割とは、その流れを醸成し鼓舞してゆくことである。またそれによって初めて、テロリズムの温床をなくし、アメリカと世界の安全保障を確立できるようになる。」
このあたりからイラク政策の重点は民主化再建を推進させることの方に移されてゆく。イラク攻撃の本当の理由の説明は結局曖昧なままに終わったが、その根拠が何であれ、今後重要なのはイラクの民主化を成功させることの方だという主張が前面に出てくるようになった。これは共和党政策綱領の中に組み込まれ、その後のブッシュ大統領のイラク政策の基本となってゆく。
振り返ってみれば、ブッシュ大統領の中東イスラム地域の民主化構想は、イラク軍事侵攻・占領を後追いで正当化するための「理由づけ」として出てきたようなところがある。しかしこの理想は歴史の常識を破る革命的な意味を持っていた。世界最大の軍事力と経済力を誇るアメリカ合衆国の大統領がそういう理想を外交政策の中心に据えたことが重要である。米国大統領が掲げる理想であるが故に、それは実現してゆく可能性が充分にあるのである。
2005年1月30日に実施されたイラク暫定国民議会総選挙は800万人以上のイラク人が投票し、投票率は全国平均で58%を越えた。シーア派住民居住地区とクルド族居住地区の投票率は60%から90%という極めて高い水準を示した。爆弾テロの恐怖に抗してこれだけ多数のイラク人が投票をしたというのはあらゆる人々の予想を覆す画期的な出来事であった。
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第4章:ブッシュの外交理念とネイタン・シャランスキー
ブッシュ大統領の外交理念を理解するために非常に参考になる本がある。「民主主義の弁護("The Case for Democracy")」という。イスラエルの政治家で海外居住者問題・エルサレム問題担当相(Minister for Diaspora Affairs & Jerusalem)であったネイタン・シャランスキー(Natan Sharansky)が2004年秋にアメリカで出版した本である。
ネイタン・シャランスキーは元アナトリー・シャランスキーと言ってソ連の反体制・反政府活動家であった。科学者で同じく反政府活動の中心的人物だった故アンドレイ・サハロフ博士などと同じく、ソ連の崩壊に体制内部から大きな影響を与えた人物である。反逆罪でシベリアの刑務所に投獄されていたが、アメリカのジャクソン・ヴァニック法やレーガン政権の圧力によって1986年ゴルバチョフ政権下のソ連からイスラエルに亡命を許された。イスラエルに亡命した後もソ連に残された百余万人のユダヤ系住民のソ連出国に尽力した。1992年にソ連が崩壊しユダヤ系住民のロシア出国が自由になってからは、イスラエルでロシアからの移民を受入れるための経済的社会的支援を政策に掲げた新しい政党を設立してイスラエルの政治家として活躍するようになる。1996年にシモン・ペレースの労働党政権下で貿易経済担当相となってからは、労働党と保守系リクッド党の頻繁な政権交代にも係らず、移民受け入れ担当相、海外居住者問題・エルサレム問題担当相として一環してイスラエルの政治の一画にあった。1990年代後半にはパレスチナとの和平交渉にも直接係った。
ブッシュ大統領は大統領再選の選挙も押し迫った2004年10月にこの「民主主義の弁護」をニューヨークの宅地開発業者で多額政治献金者のトム・バーンシュタイン(Tom A. Bernstein)から寄贈された。バーンシュタインは国際自由センター(International Freedom Center)の創設者で、世界貿易センター跡地の一角に「人権(human rights)」に焦点を当てた博物館を建設する計画を立てている人物である。大統領選の最後の多忙な日程の中でこの本を読み始めたブッシュ大統領は、「自由」と「民主主義」を唱導するシャランスキーの思想がイラク占領後主張してきた自分の外交理念と重なりあっていることを発見し、非常に感心する。
「民主主義の弁護」の副題は「専制政治と恐怖政治に打ち勝つための自由の力("The Power of Freedom to Overcome Tyranny and Terror")」である。人の「自由」を求める願望は文化、宗教、民族、歴史を越えて神がすべての人に与えた普遍的な願望であり、専制政治や恐怖政治の下でも人々の心の中にはこの強い願望が存在する。普段は抑圧されて表面には現れていなくても、機会が与えられれば人々は必ず「自由」を求めて運動を起こす。それが成功すれば民主社会が誕生し専制政治や恐怖政治は打ち倒される。それほど人の「自由」を求める願望は根源的で力強いものである。シャランスキーはそういうことをこの本で開陳しようとした。
シャランスキーによれば専制政治あるいは恐怖政治の下に置かれている国民は3つのタイプに分けられる。体制信奉者(believers)、反政府運動家(dissidents)、二重思考者(double thinkers)の3タイプである。体制信奉者は言うまでもなく専制政治ないし恐怖政治の支配者を信奉しその体制をそのまま良しとして受入れている人々である。反政府運動家は逆に公に政府を批判し反体制活動を行なう人々である。一番大事なのはシャランスキーが二重思考者と名付けた人々で、彼らは専制政治ないし恐怖政治を恐れて表面上は体制に従順のように振る舞っているが、実際には専制政治ないし恐怖政治を嫌い、陰では政府に批判的な考え方を持っている人々である。ソ連という共産主義的独裁政治体制での経験を基にシャランスキーは、専制政治ないし恐怖政治の下にある国民の大半は実はこの二重思考者に当たる人々であると考える。二重思考者は体制の引き締めが強い限り何もできないでいるが、ひとたび機会が訪れると一斉に反政府、反体制の声を上げる。民主主義的な選挙の機会が与えられれば必ず民主主義の唱導者を自分達の政府指導者に選出する。それがベルリンの壁が崩れ、東欧諸国の民主化の波が起こり、最後にはあの強大なソ連が崩壊するに至ったのも、そういう二重思考者の自由を求めた運動の結果であったとシャランスキーは述べる。
そこで次の問いかけは、同じようなことが中東イスラム諸国、アラブ諸国にも起こり得るかどうかということである。少なくともこれまでは、殆どの政治家や学者は、宗教や文化伝統が全く異なるイスラム諸国ではそういう変革は起こらないと考えてきた。また、欧米諸国の政治指導者達は、戦略的資源である石油を安定確保するためには、中東イスラム諸国に不安定な民主政府が生まれるよりは、安定した専制政治が続いた方がよいと考えるのが普通であった。
しかしシャランスキーはそうは考えない。「自由」を求める人々の欲求は宗教や文化や歴史の違いを越えて人間に普遍的なものであり、イスラム諸国、アラブ諸国の人々でもそれに変わりはない。機会を与えられれば彼らも必ず「自由」と民主主義を求めるようになる。それは専制政治、恐怖政治の下にあるイスラム諸国、アラブ諸国の国民の殆どもまた二重思考者達であるからであるという。
シャランスキーは社会を「自由社会(free society)」と「恐怖社会(fear society)」の2つのタイプに分ける。「自由社会」とは言論の自由が保証されている社会、すなわち街角で誰がどんな意見を主張しても逮捕されたり迫害されたりすることのない社会である。それに対して「恐怖社会」とは街角で自由な意見を主張することのできない社会、体制に反する意見を言った場合には逮捕されたり投獄されたり処刑される恐怖がある社会である。
ある社会が「自由社会」であるか「恐怖社会」であるかはこの街角での言論テスト「タウン・スクエア・テスト(town square test)」で判断することができる。「タウン・スクエア・テスト」に合格する自由社会では人々が街角で政府を堂々と批判できるし反政府デモンストレーションもできる。しかし街角で人々が自由に政府を批判できないような社会は程度の差はあってもすべて「恐怖社会」のカテゴリーの中に入る。
シャランスキーは現在のイスラム諸国、アラブ諸国の殆どは「恐怖社会」であるとみなす。しかしそういう「恐怖社会」の下にあっても人々の大半は上に述べたような二重思考者である。だからそういう人々が選挙の機会を与えられれば、イスラム諸国、アラブ諸国にも民主社会、「自由社会」が誕生するのは充分に可能であるとシャランスキーは考える。
「自由社会」は平和を志向する社会である。何故なら、「自由社会」の長は民衆によって選ばれ民衆に支持されているから、外敵を作って民衆を煽動する必要がない。つまり「自由社会」は対外的に危険な社会ではない。また、「自由社会」では、民衆の支持を受けられなくなった行政の長は選挙によって平和的に入れ替えられる。これに対して「恐怖社会」は対外的に危険な社会である。「恐怖社会」の支配者は民衆の支持を受けていないので、自分の独裁を続けるために常に外敵を作る必要があるからである。常に外敵を作ってそれと闘うことにより国民を自分の支配下に置き続けようとする。「恐怖社会」は対外的に危険な暴力を孕んだ社会である。
シャランスキーにとってアラブ諸国の民主化のテスト・ケースとなるのがパレスチナであった。パレスチナは長らく故アラファット議長の独裁的支配の下にあって、パレスチナの住民は「自由」を与えられることがなかった。1993年のオスロ合意を基に90年代の最後までイスラエルとパレスチナの和平努力が続けられた。しかしシャランスキーはこの和平努力は出発点そのものが誤っており、オスロ合意の延長では永続的な和平を結ぶことは不可能であると見ていた。その理由は、オスロ合意は独裁者であるアラファット議長をイスラエルの和平交渉相手に設定し、結果的にはアラファット議長の独裁的力を強めることにしかならなかったからである。
欧米諸国は、アラファット議長に力を貸せば、アラファット議長はパレスチナのイスラム過激派ハマスやイスラミック・ジハッドなどを抑えてイスラエルとの和平実現に努力するだろうと期待した。そのためオスロ合意以来アラファット議長に多額の資金援助を提供し続けた。しかしアラファット議長は、巨額の援助資金の半分を自分の個人銀行口座に入金して私腹を肥やした。アラファット議長はイスラエルと欧米指導者に向かっては英語で「和平」を語ったが、パレスチナ人にアラビア語でしゃべる時はイスラエルの抹殺とイスラエルに対する「聖戦」しか語らなかった。パレスチナの学校では反イスラエル、反ユダヤ、反シオニズムの思想ばかりを吹き込み、イスラエルに対する自殺爆弾テロを敢行した人々を「イスラム殉教者(Martyr)]と呼んで神格化した。
2000年7月、クリントン大統領がキャンプデイビッドの山荘でアラファット議長とイスラエルのバラク首相の2人を缶詰にして和平交渉の仲介を試みた。しかしアラファット議長がバラク首相の提案したウェストバンク占領地の93%の返還という大きな譲歩を呑まなかったため、結局は失敗に終わった。その9月からパレスチナ過激派による爆弾テロが再び激しさを増し、いわゆるインテイファーダ(intifada=暴動)が復活した。「オスロ合意を基にした和平努力では和平が実を結ぶことはない」というシャランスキーの予言は現実のものとなった。
シャランスキーは、イスラエルとパレスチナとが恒久的な和平を実現するためには、まずパレスチナ自体が「恐怖社会」から「自由社会」に変革する必要があると考える。アラファット議長の力を強めることを放棄し、アラファット議長に代わる指導者に力を貸して、パレスチナの人々が「自由」を謳歌できる民主的な社会を創造することがまず必要であると考えた。パレスチナの社会が「タウン・スクエア・テスト」をパスできる社会に生まれ変わり人々が自由な言論活動をできるようになった時に、イスラエルとの本当の恒久的な和平も実現するだろうとシャランスキーは予言する。
ブッシュ大統領はこの本を読んで、シャランスキーに会ってみたいと思うようになった。11月2日の大統領選が終わった後の11月10日、シャランスキーはこの本の宣伝のためにたまたまニューヨークを訪れていた。それを知ったホワイトハウスはただちにニューヨークのシャランスキーに連絡を取り、ブッシュ大統領が面会を望んでいることを伝えた。
翌日の11日、シャランスキーはホワイトハウスでブッシュ大統領と対面した。ブッシュ大統領は「まだ211頁目だが」と断った上で、シャランスキーの本が自分がそれまで漠然と考えていたことを明快に見事に論じていることを賞賛した。特にイスラム諸国、アラブ諸国でも人々の「自由」を求める願望は同じであり、自由な民主的な社会をイスラム諸国、アラブ諸国に広げてゆくことが究極的には欧米の安全保障にもつながるという考え方は自分の考えと同じであるとシャランスキーに語った。ブッシュ大統領は後日、「シャランスキーはソ連の刑務所に入れられたこともある、恐怖社会を熟知している人物なので、自分より優れた視点を持っている。彼の本は自分が書くものより余程優れている」と語ったという。
ブッシュ大統領はその後、友人、ホワイトハウスのスタッフ、外国元首、ジャーナリストなど相手を問わず、話題が外交政策と中東・イスラム諸国の将来に及ぶ度に、この「民主主義の弁護」を読むことを薦めるようになった。ブッシュ大統領第2期の大統領就任演説は「米国は自由と民主主義を世界に広げることを外交の目標とする」ことを高らかに宣言したが、その演説の中には「民主主義の弁護」の文節が随所にちりばめられていることがジャーナリスト達によって指摘された。「民主主義の弁護」はその後今日まで言わばブッシュ大統領の外交政策の「バイブル」的存在となっている。「民主主義の弁護」やシャランスキーの名前には特に触れないが、ブッシュ大統領は現在でも、自由と民主主義を語る時はシャランスキーと同じ言い回しを使う。
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第5章:「9/11テロ国家調査委員会」の明らかにしたもの
CIA長官のジョージ・テネットが「スラム・ダンク(slam dunk)*」だと太鼓判を押したイラクの大量破壊兵器保有は、後日全くの誤りであったことが判明する。ブッシュ大統領は誤ったスパイ情報を根拠にしてイラク軍事侵攻を正当化しようとしたことになる。イラク占領後2年以上にわたってブッシュ大統領とその政権が世界中の国から非難を受け続けた主な理由もこれにあった。ブッシュ大統領と米国の権威は一時失墜し、国際社会からのけもの扱いにされかけた。
* バスケットボールをネットの上から投げ込むこと。敷延して「間違いのないこと」「確実なこと」を意味する。
そもそもブッシュ政権になってから米国の諜報機関は2回の大きな失敗を犯した。最初の失敗は9/11テロを未然に防ぐことができなかったことである。2つ目の重大な失敗はイラク大量破壊兵器に関するスパイ情報が全く誤っていたことである。最初の失敗により米国は3000人近い人命と世界貿易センタービル2棟と国防総省本部ビルの一部を失った。2つ目の失敗により米国は国際的信用を失った。ある意味ではこの2つの失敗は米国の運命を変え、米国の進むべき方向を変えることになった。
何故この2つのスパイ活動に失敗したのか、何故誤った情報を事前に修正できなかったのかという疑問は、議会の方から出された。それは、議会が行政府のスパイ諜報活動を監視監督する権限と義務を持っているからである。議会はまず2002年11月27日に、9/11テロを何故事前に察知し未然に防ぐことができなかったのかを徹底的に調査するために、超党派の独立の「テロリストの米国攻撃に関する国家委員会(National Commission on Terrorist Attacks Upon the United States。以下、9/11テロ国家調査委員会と呼ぶ。)」(共同委員長はトーマス・キーン元ニュージャージー州知事とリー・ハミルトン元下院国際関係委員長)を設置した。
この国家委員会の調査の範囲はスパイ活動の失敗だけに限らず、大統領を含めた行政府の最高責任者にテロを未然に防げなかった責任がないかどうかにも及んだ。また、テロが発生したのはブッシュ政権下であったが、それはブッシュ政権が発足してからまだ8ヶ月足らずしか経っていない時であったので、クリントン前政権時代にテロの芽を摘むことができなかったかどうかにも調査の手が伸びた。同委員会の20ヶ月の調査は9/11テロに関する最も包括的で徹底的な調査となった。国家委員会のもうひとつの任務は、調査結果に基づいてブッシュ政権に対して、今後同じようなテロの発生を防ぐ為の政策提案をおこなうことにあった。
ブッシュ政権の内部でも同じ問いかけがなされたはずであるが、自らの政権内の失策であることから、公的にはこの疑問をむしろ回避しようと努めた。「9/11テロ国家調査委員会」が設置されてからは、やむなくこの独立委員会の調査の結果が出るまで待つということになった。しかしこの調査委員会の調査が続いている間にイラク侵攻が敢行され、イラク占領から何ヶ月経っても存在したはずの大量破壊兵器が全く発見できないという新たなスパイ情報の誤りがはっきりしてきた。ここでもスパイ活動の甚大な誤りを取り上げてその原因の究明を求めたのは議会であった。
ブッシュ政権はイラク大量破壊兵器スパイ活動の失敗の原因を調べるためには議会の決定を待たなかった。ブッシュ大統領は2004年2月大統領直属の「大量破壊兵器に関する米国の諜報能力に関する委員会(Commission on the Intelligence Capabilities of the United States Regarding Weapons of Mass Destruction)」(共同委員長はチャールス・ロブ元上院議員とローレンス・シルバーマン連邦控訴裁判所判事)を発足させ、米国の諜報機関がイラクの大量破壊兵器に関して誤ったスパイ情報を持つに至った原因を調べることを命じた。
イラク攻撃はブッシュ大統領自身の決断によるところが大きかったので、議会が大量破壊兵器スパイ活動の失敗の原因調査で主導権を握ると、ブッシュ大統領のイラク攻撃の決断の責任も追及されかねないという懸念があった。それを回避するためにブッシュ政権はこの主導権を先取りする必要があったと考えられる。この大統領直属の委員会の調査範囲はイラク大量破壊兵器のスパイ活動が誤った原因に関してだけで、その情報をブッシュ政権が如何に利用したかという政治的側面は調査対象から外してていた。
2004年の大統領選が本格化した春から初夏にかけて「9/11テロ国家委員会」はブッシュ政権とクリントン前政権の国防長官、国務長官、国家安全保障補佐官、CIA長官、FBI長官などを証人に招いて、一連の公開公聴会を開催した。ブッシュ政権のラムスフェルト国防長官、パウエル国務長官、ライス国家安全保障補佐官(現国務長官)、マラーFBI長官、クリントン政権とブッシュ政権の両方に仕えたテネットCIA長官、フリーFBI長官、クラーク反テロリズム担当大統領補佐官、クリントン政権下のコーエン国防長官、オルブライト国務長官、バーガー国家安全保障補佐官など、両政権下の外交・軍事・諜報・犯罪捜査関係機関の最高責任者がすべて証人として召喚された。テレビで全米に生中継された一大スペクタクルであった。テレビ中継はされなかったが、ブッシュ大統領、チェイニー副大統領、クリントン前大統領も共同委員長の面接により尋問を受けた。
この公聴会で一躍名を高めたのはライス国家安全保障補佐官であった。黒人女性として初めて大統領の国家安全保障補佐官となったライス女史は、歯切れのよい力強い証言でスター的存在となった。ライス補佐官は、クリントン政権から残留したテネットCIA長官などを除いて、ブッシュ政権のなかではアルカイダのテロの脅威を最も詳しく知らされていた人物である。その緊急性を理解しタイムリーに対応策を取っておけば、彼女が9/11テロを未然に防ぐ高官になっていたかも知れない。それができなかったのは、ライス補佐官の認識が不充分だったからではないかという疑いがあった。公聴会ではライス補佐官は、ブッシュ政権がクリントン政権からテロ問題の充分な引継ぎを受けていたと主張し、またブッシュ政権がテロ対策に本腰で取り組んでいたことも強調した。
ライス国家安全保障補佐官がアルカイダのテロ問題に真剣に取り組む姿勢を見せるのは、政権発足から4ヶ月以上経ってからであった。テネットCIA長官は2001年5月29日のライス国家安全保障補佐官との定期会合を、アルカイダに関する広範な討議の会に変えることに成功した。この会合にはクラーク補佐官やCIAの反テロリズム責任者コファー・ブラックなども加わった。この討議の後、ライス補佐官はアルカイダ対策に初めて真剣に取り組むようになる。ライス補佐官はその後間もなくクラーク補佐官に、アルカイダに対する広範な反テロリズム施策を盛り込んだ大統領令のドラフト作成を要請する。その最初の草稿は6月の初めに国家安全保障関連高官に回覧される。スパイ活動だけでなく、外交、経済制裁、FBI捜査などを含んだ広範な施策で、必要とあれば米軍を動かすことも含むものであった。しかしその草稿はすぐには大統領の署名を得るに至らなかった。夏が過ぎて、9月4日に国家安全保障協議会は初めてアルカイダに関する会合を開き、6月に回覧された大統領令をそこで原則的に承認する。しかしこの会合では、無人偵察機プレダターを如何にしてアルカイダ攻撃の武器として使うかという技術的な問題に多くの時間が費やされ、アルカイダのテロの脅威やその緊急性に関しては充分な議論が行われずに終わった。
同じく公聴会に召喚されたホワイトハウスの反テロリズム担当責任者だったクラーク補佐官は証言の冒頭で「9月11日のテロを未然にふせげなかった責任は自分も含めて米国政府にあった。大変申し訳なかった」と国民に頭を下げて謝り米国民の注目を集めた。しかし彼の証言は、アルカイダのテロの脅威を真面目にタイムリーに取り上げなかったブッシュ政権だけを一方的に批判する民主党贔屓のものとなった。
クラーク補佐官はクリントン政権の最後の1ー2年間はホワイトハウスの反テロリズム担当責任者として関連省庁の副長官と同等の発言権を与えられ、バーガー国家安全保障補佐官の配慮によりテロリズム問題に関してはクリントン大統領に直接ブリーフィングをできる立場にあった。10年以上ホワイトハウスの国家安全保障協議会でテロリズム問題一筋の仕事をおこなってきたので、テロリズムの知識では彼の右にでるものはいなかった。そのために政権が変わっても留任を要請された。しかしブッシュ政権になると、クリントン政権時代に持っていた大統領や閣僚と直接話をできる特権はなくなり、クラーク補佐官が報告する上司はライス国家安全保障補佐官となった。クラーク補佐官はこれを格下げと受けとめた。同時に、幾らアルカイダのテロの脅威を訴えてもただちに行動を起こさないライス補佐官やブッシュ大統領に不満とフラストレーションを募らせてゆく。
5月29日のテネットCIA長官とライス補佐官とのアルカイダに関する初めての真剣な会合の後、クラーク補佐官は大統領令のドラフト作成を要請されるが、それを作った後間もなく、クラーク補佐官はサイバー・テロリズムに関する仕事に移ってしまう。9月4日にアルカイダに関する初めての国家安全保障協議会が開かれる直前には、クラーク補佐官はライス補佐官に、アルカイダのテロ攻撃の近いことを警告し、ブッシュ政権の対応の遅れを厳しく批判する e-mail を送っている。「ブッシュ政権はテロリズムに本当に真剣なのか? 近い将来アルカイダのテロによってアメリカ人を含む何百人もの人が死んだ場合、政権担当者はもっと早く手を打っておくべきだったと後悔するにするに違いない。USSコール爆破テロに対して、犯人である確証をできないとの理由でアルカイダに報復しなかった。そのためアルカイダはこれまでになく大胆になっている。我々は今やアルカイダの大規模テロを黙って待っているようなものだ。、、、、」クラーク補佐官の警告はその7日後現実のものとなるのである。
9/11テロ国家委員会の調査の過程で明らかにされたことのひとつは、クリントン政権の最後の2ー3年間にはウサマ・ビン・ラーデインを比較的容易に捕らえる機会があったことである。
クリントン政権がウサマ・ビン・ラーデインを捕縛することのできた最初のチャンスは1995年の終わり頃にあった。スーダン政府がウサマ・ビン・ラーデインをサウジアラビアに引き渡そうとしたが、サウジアラビアはビン・ラーデインのサウジアラビア市民権を既に剥奪してしまったことを理由これを断った。そこでスーダンの国防相はクリントン政権にビン・ラーデインを引き渡すことを申し出たが、クリントン政権はそれを断った。クリントン政権の当時の高官は一様にそういう申し出はなかったと否定しているが、当時はウサマ・ビン・ラーデインの存在はアメリカでは殆ど知られておらず、クリントン政権はその価値を認められなかった可能性が高い。
CIAがウサマ・ビン・ラーデインの影響力とアルカイダというテロリスト集団の国際的広がりを知るようになったのは1996年5月にビン・ラーデインがスーダンからアフガニスタンに移った頃からである。その2ー3ヶ月後に、ビン・ラーデインの部下だったというジャマル・アーメド・アル・ファドルという人物がアフリカの米国大使館に駆け込み、アルカイダの全貌、ウサマ・ビン・ラーデインの反米思想や対米テロ計画などの情報をCIAに提供した。ここで初めて米国は、ウサマ・ビン・ラーデインがテロリズムを支援する単なる受動的な資金提供者ではなかったことを知る。更にその年の後半には別の情報提供者がやはりアフリカの米国大使館に駆け込んでアルカイダの詳しい情報を提供した。CIAはこの頃からウサマ・ビン・ラーデインとアルカイダに関する本格的なスパイ活動を展開するようになる。
1年後の1997年の秋までには、CIAのビン・ラーデイン監視部局はビン・ラーデインをアフガニスタンの部族の力を借りて捕縛する計画の概要を作り上げる。ビン・ラーデインは当時、カンダハル南のカルナック農場という約80の建物が並ぶ敷地内に留まっていた。ビン・ラーデインはそこに何人もの妻をおいて夜毎に別の建物に寝泊まりしていた。CIAに通じた部族は、ビン・ラーデインがどういう日程で行動し、いつ何処に泊まるかということも突きとめていた。
ビン・ラーデイン捕縛作戦は、CIAの特殊部隊を送り込むのではなく、そういうアフガニスタンのCIAに協力する部族を使って、武装した部族にビン・ラーデインを捕縛誘拐させ、それを後日CIAに引き渡させるというものであった。CIAは米国内でその模擬作戦を展開して、それが可能であるとの確信を持ち、1998年の初めには計画をホワイトハウスの国家安全保障協議会に上げた。同協議会はその段階では明らかにその計画に賛成した。同年2月13日にテネットCIA長官はバーガー国家安全保障補佐官に再度この計画を詳しく説明し、作戦遂行への正式の許可を求めた。その計画を調べたバーガーの下のリチャード・クラーク補佐官も、計画はまだ未熟さが残るとしながらも、その作戦を先に進めるように進言した。この計画は軍の特殊部隊の司令官にも回覧され意見が求められた。アフガニスタンの部族に頼るということに疑問を呈しながらも軍幹部もこの作戦を支持したと見られる。軍がこの作戦に反対したという形跡はなかった。
5月、作戦を実行するための通知覚え書きが作られ、CIA幹部がこれを更に吟味した。ビン・ラーデインという外国のテロリスト容疑者を捕縛する作戦であるため、リノ司法長官やニューヨーク連邦検事などにも覚え書きが送られ、司法当局の意見も求められた。CIAは5月20日過ぎに作戦の最後のリハーサルをおこない、5月29日の国家安全保障協議会で作戦の最終的な許可が得られる段取りになっていた。ビン・ラーデインの捕縛作戦の日は6月23日と設定された。
しかし5月29日の国家安全保障協議会は開かれなかった。同日朝テネットCIA長官はバーガー国家安全保障補佐官に、ビン・ラーデイン捕縛作戦を取りやめることを一方的に通知した。作戦遂行の際に多数の一般市民に死傷者が出る恐れるがあること、作戦を遂行する部族の安全が懸念されること、この作戦が国際的な誤解を招く恐れのあること、作戦は結局成功しない可能性の方が高いと判断されることなどがその決定の根拠だったと考えられている。CIAのビン・ラーデイン監視部局はこれに痛く失望したがどうすることもできなかった。また作戦を予定していたアフガニスタンの部族はその後はCIAの同じような作戦には協力しなくなった。そしてこの頃を境にしてビン・ラーデインの身辺の警戒が以前とは比べ物にならないほど厳重になり、極秘行動が多くなった。
ビン・ラーデイン率いるアルカイダはそれから2ヶ月余り先の8月7日にケニヤのナイロビとタンザニアのダルエスサラームの両米国大使館を標的に、合計230人の死者と5000人を越える負傷者を出す大規模な同時爆弾テロを引き起こすのである。クリントン大統領は2週間後の8月20日に巡航ミサイルを使ってウサマ・ビン・ラーデインの命を狙った報復爆撃をおこなう。爆撃地にはビン・ラーデイン以下アルカイダ幹部が100人以上集まっているはずであったが、彼らは爆撃の始まる2ー3時間前には別の場所に移ってしまっていた。
当時はインドとパキスタンが共に核保有国となり両国の緊張が異常に高まっていた。ペルシャ湾から発射されたトマホーク巡航ミサイルがアフガニスタンに達するためにはパキスタン上空を通過する必要があり、パキスタンがそれをインドが発射したミサイルと誤解しないようにする必要があった。米国は副参謀総長をパキスタンに送って、パキスタンの参謀総長から米軍の巡航ミサイルのパキスタン上空通過の許可を取り付ける手続きを踏んだ。しかし当時のパキスタンの諜報機関はアフガニスタンのタリバンやビン・ラーデインによく通じていた。米国の計画を知ったパキスタンの諜報当局はそれをタリバンとビン・ラーデインに事前に知らせてビン・ラーデインを逃した可能性が高いと推測されている。
その後クリントン政権はウサマ・ビン・ラーデインの捕縛ないし殺害の機会を狙い続けるが、その機会は遂に現れなかった。同時に、アルカイダの組織がますます広がってゆくにつれて、これまでの政権の対応ではテロの脅威に対抗できないことがわかってくる。
「9/11テロ国家調査委員会」は2004年7月22日に最終報告書を発表した。同報告書は、9月11日テロを未然に防げなかった責任はブッシュ政権とクリントン政権の両方にあり、クリントン政権のアルカイダへの対策が充分でなかったと同時に、ブッシュ政権にはテロリズムの脅威への認識が欠けていたことを指摘する。2000年の大統領選挙の結果が直ちに決まらずフロリダの再開票から連邦最高裁の裁定によってブッシュ候補の勝利が確定するまでに36日もの期間を要したため、クリントン政権からブッシュ政権への引継ぎ期間が異常に短くなった。また政権政党が交代して業務の引き継ぎがスムーズにゆかなかったことや、新政権の高官の指名承認が遅れ仕事の開始に手間取ったことなどが、ブッシュ政権のテロリズムへの対応を遅らせる要因になった。
FBIは9/11テロを引き起こした19人のテロリストの行動に関して断片的な情報をかなり持っていた。例えばアラブ系の青年がフロリダ州の航空パイロット訓練学校で飛行訓練を受けていたことなどはFBIが知っていた。しかしそれをテロ計画につなぎ合わせることがうまくできず、またそういう国内情報をCIAの持つ海外テロリスト情報、特にウサマ・ビン・ラーデインやアルカイダの情報とつなぎ合わせることができなかった。
航空機を使った米国内におけるテロの可能性は既に90年代の後半に指摘されていた。それを現実にあり得ることと考えて早期に対策を取っておけば状況は変わったかも知れない。しかし結局はどうやっても、当時の体制では9/11テロを未然に防ぐことはできなかったと「9/11テロ国家調査委員会」は結論するのである。
他方、大統領直属の「大量破壊兵器に関する米国の諜報能力に関する委員会」は13ヶ月の調査の後、2005年3月31日ブッシュ大統領に最終報告書を提出した。報告書は、2003年3月20日米軍がイラクに侵攻した時点で米国が持っていたイラクの大量破壊兵器保有に関する情報は「完全な誤り(dead wrong)」であったこと、CIAがそういう誤った情報をブッシュ大統領にも議会にも国連や国際社会にも提示し続けていたことを指摘する。CIAは1991年の湾岸戦争終了時点において持っていた大量破壊兵器に関する情報に頼り過ぎ、その後国連兵器査察団が相当量の生物・化学兵器を廃棄したことを充分に勘案せず、またイラク国内のスパイ活動が殆どできないまま限られた数の当てにならないイラク人亡命者の証言だけに頼って主観的な分析と判断を繰り返したことが、こういう甚大な誤りを引き起こしたと結論づける。
イラク大量破壊兵器のスパイ活動の失敗は、米国の国際的信用を失墜させたのみならず、今後米国がイランや北朝鮮やその他の問題国の核兵器保有に関して発言し難くなるという重大な問題を引き起こした。米国のスパイ活動に信用がなくなったために、今後イランや北朝鮮に大量破壊兵器が存在すると言っても他の国々は信用しなくなる可能性がでてきた。また大量破壊兵器の保有を理由に軍事行動を起こすことも当面難しくなった。
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第6章:イラク戦争反対を掲げて敗北した民主党のケリー候補
2004年7月29日民主党全国大会によって大統領候補の指名を受け、指名受諾演説のために壇上にあがったジョン・ケリー候補(マサチューセッツ州選出上院議員)は、右手で軍隊風の敬礼をしながら、「我、ジョン・フォーブス・ケリー、兵役義務のため出頭しました (I, John Forbes Kerry, report to the duty!)」と宣言した。これは35年前にイェール大学在学中に徴兵を受けたジョン・ケリーが、海軍のオフィスに出頭した時に発したのと同じ言葉である。民主党大統領候補に指名されたケリーは、民主党からの徴兵を受けて、それに応えて「今出頭しました」と壇上報告したのである。この一言は2004年大統領選本選の性格を決定づけるものとなった。9/11テロ後初めて行われた2004年大統領選は、テロリズム戦争とイラク戦争戦後処理のためにブッシュ大統領とケリー候補のどちらが最高指揮官としてより優れているかをめぐって争われたのである。
ケリー候補は自分が1968年から71年にかけて下士官として海軍に兵役し、実際にヴェトナム戦争の前線で闘ったこともあるという実績を基にして、そういう実績のないブッシュ大統領よりは良い仕事ができると主張した。現下のテロリズム戦争の時代には自分の方が大統領になる資格があるというイメージを作ろうとした。指名受諾演説では、20年近い上院議員としての仕事や、その前のマサチューセッツ州副知事、連邦検察官の仕事には一切触れず、35年前のヴェトナム戦争に一気に遡って、そこでの経験が如何に現在の自分を形成し力強い指導者にしたかという一点に絞って自分の大統領候補としての適格性を売り込もうとした。ケリー候補のこの指名受諾演説は、イラク戦争に強い反対をしていた過半数の民主党有権者をむしろ驚かせるものであったが、ケリー候補の狙いは、民主党にもジョン・ケリーという、共和党のブッシュ大統領に負けない最高指揮官が存在するということを主張することにあった。民主党の常識を破ったケリーの演説は、テレビで見る一般米国有権者にこれまでにない新鮮さを覚えさせる効果があり大きな成功を収めた。
ケリー候補が大統領選の争点に国家安全保障問題を選んだのは決して偶然でも恣意的なことでもない。むしろこれを選ばざるを得なくなったのである。当初は2004年大統領選挙の争点は(1)経済と(2)国家安全保障問題の2つにあるとみなされていた。ブッシュ政権の最初の3年間は景気後退と景気停滞に悩まされ、特に新規雇用が伸びないために政治的責任を問われ続けた。そこで2004年初めの民主党予備選の段階までは、経済・雇用問題の方が大きな争点であった。一時ジョン・エドワーズ候補(ノースカロライナ州選出上院議員)がケリー候補に迫る勢いを示したのは、エドワーズ候補が経済・雇用問題に焦点を当てて貧困者対策を訴えたからである。
ところが実際には、2003年の後半から経済は力強い成長を始め、GDPの四半期ごとの成長率は2003年第3四半期から2004年第2四半期にかけて8.2%、4.0%、4.5%、3.3%と連続して高い数値を記録した。また遅れていた雇用回復も2004年初頭から急上昇を始め、同年3月、4月にはそれぞれ35万人ずつの新規雇用、5月にも25万人の新規雇用を記録して、経済・雇用回復の事実を裏づけた。そのため、経済回復の遅れに対するブッシュ大統領の責任を追及する予定でいた民主党は、民主党全国大会が始まる頃までにはその戦略を放棄せざるを得なくなったのである。
残る争点は安全保障問題だけとなった。しかしこの分野では従来から民主党より共和党が強いという印象があり、特に9月11テロ以後、ブッシュ大統領はテロリズム戦争に強力な指導力を発揮したので、安全保障でこの現職大統領を凌駕することは容易なことではなかった。安全保障問題でブッシュ大統領を凌ぐためにはどうしたらよいか。ーーーそこから、冒頭に紹介したようなケリー候補の最高指揮官としての資格を強調する作戦が出てきたのである。ブッシュ大統領に対抗するためにはこれしかなく、背水の陣を敷いたケリー候補の大きな賭けであった。
「大きな賭け」というのは、最高指揮官としての強力な指導力を主張したケリー候補は、実は名だたる「反戦運動家」でもあったからである。確かにヴェトナム戦争の前線に派遣され、戦闘負傷者に与えられるパープル・ハートを3回授与され、人命を救った功績に与えられるシルバー・スターも授与された。しかしそれは1968年秋から1969年春にかけての僅か4ヶ月余りの短い従軍の経験でしかなかった。1969年に3回目の負傷で帰国を許されたジョン・ケリーは、その後はヴェトナム戦争を経験した兵士仲間の反戦運動にのめり込んでゆく。ケリーは米軍兵士がヴェトナムで犯した一般人に対する殺戮や強姦などの戦争犯罪を議会証言で厳しく告発し、反戦運動の指導者として名前を馳せることになった。
戦闘よりは反戦運動で名を成した人物であるにも係らず、「強力な指導力」を主張することによってブッシュ大統領に対抗しようとしたケリー候補の試みは一応の成功を収め、秋の本選に向けてケリー候補はブッシュ大統領と肩を並べるようになる。
ジョン・ケリー上院議員が民主党大統領候補に指名されることがほぼ確実になった2004年の初夏、「ジョン・ケリーに反対する高速哨戒艇退役軍人の会(Swift Boat Veterans against John Kerry)」という団体が結成された。
ジョン・ケリーはヴェトナム戦争の前線にあった4ヶ月余りの間、高速哨戒艇(swift boat)の艇長として敵軍と戦闘を交えたことになっている。民主党全国大会の指名受諾演説を終えた直後、ケリー候補はヴェトナムで自分の高速哨戒艇の部下だった人々など20人前後の戦友を壇上に招いて自分の経験の重さを視覚的に示そうとした。
ところが、同じ高速哨戒艇仲間やケリーと戦地で一緒になった人々の中に、ケリーとの経験を「悪夢」のように覚えている人々が多数存在した。そういう人々が集まって「ジョン・ケリーに反対する高速哨戒艇退役軍人の会」を形成したのである。その数は63人。彼らは、「ケリーは自分の出世のことばかりしか頭になかった人物だった」「ケリーは1日も早くヴェトナムを離れて帰国を許されたいと望むあまり、かすり傷でさえ戦闘による負傷と偽って報告してパープル・ハート勲章を与えられれた」「彼の傷がパープル・ハートに値しないかすり傷であったことは、医者として彼の治療にあたった自分が一番よく知っている」「ケリーが後日議会で証言した米軍兵士の残虐行為、すなわち罪のない婦女子供を強姦・虐殺したり、ベトコンの陰部を切り取ったり、村ごとを焼き払ったりしたといったことは実は例外的な出来事であって、殆どの米軍兵士は軍規に則って名誉ある闘いを遂行した」「そういう嘘をつくことによりヴェトナム反戦運動で名をあげようとしたことはどうしても許せない」「ケリーはパリにおける北ベトナムとの和平交渉に民間人としてでかけて、北ヴェトナムと売国的な取引をしようとした」などと激しいケリー非難を展開した。
この「退役軍人の会」はケリー候補が指名受諾演説を終えた直後の8月初めからは、そういうケリーの非難をテレビ広告にして全米の大統領選接戦州に流し始める。ヴェトナム戦争経験を自分の最大の売り文句にしたケリー候補にとっては、思いがけない敵の登場であった。このケリー非難のテレビ広告がケリー候補の信用と評価をじりじりと侵食して行った。このテレビ広告は、話題と登場人物を変えながら11月2日の大統領選挙当日まで続いた。
「退役軍人の会」に思いがけず行く手を阻まれたケリー候補は、安全保障問題で何らかの別の主張を見つけなければならなくなった。元々民主党有権者の70%はイラク戦争に反対した有権者である。そこでケリー候補の口から自然にでてくるようになったのは、イラク戦争批判であった。
「イラク攻撃はテロリズム戦争を完遂するためのむしろ障害となった」、「ブッシュ大統領はイラク占領政策、イラクの再建に大失敗をした」、「自分ならイラク再建でもっと良い仕事ができる」、「イラク再建を成功させるためには米駐留軍を飛躍的に増大する必要がある」、「自分が大統領なら国連を説得して国連平和維持軍を大量にイラクに派遣させ、米軍の負担を減らす。」ケリー候補の口からはこうした色々なイラク政策批判が飛び出すようになった。
ケリー候補は上院議員として、米軍がイラク侵攻を開始する6ヶ月前の2002年10月10日に議会上下両院が可決した、イラクに対する軍事攻撃を容認する決議案には賛成票を投じた。しかし、もともと反戦主義者であるケリー候補がいつまでも反戦の本能を隠し続けることは難しい。大統領選挙の本選の段階で、ブッシュのイラク政策を厳しく批判するようになったのはそういう「反戦の本能」が自然に頭をもたげたためであろう。色々な言いまわしはしたが、ケリー候補が一貫して主張しようとしていたのは結局、「イラク戦争は行なうべきではなかった、イラク戦争は必要ではなかった」ということであった。テロリズム戦争には賛成だが、イラク戦争には反対であるというのがケリー候補の最終的な立場となった。
ケリー候補の主張は国の方向を決めるための選択肢として健全なものであり、好もしいものであった。しかしながら、ケリー候補の立場にはひとつだけ重大が欠陥があった。それはイラク戦争は既に済んでしまった戦争であったことだ。米軍の占領を経て、2004年6月末にはポール・ブレマーの連合統治機構からイラクの暫定政権への主権移譲が行われ、イラクは既に初の国民議会選挙に向けて準備を始めていた。治安の悪さは相変わらずでも、イラクは民主化再建に向けて確実に前進を始めていた。戦争の善し悪しにかかわらず、米国はイラクの民主化再建をそのまま支援して行く以外に選択の道がなくなっていたのである。もしケリー候補が、イラクの民主化再建のためにブッシュ大統領より優れた代換案でも提示していたなら反撃のチャンスはあった。しかしそれは出てこず、ケリー候補の提示した選択は結局「イラク戦争は良いか、悪いか」という過去の選択だけに終わった。ここにケリー候補の基本的な限界が見られたのである。
開票の結果、ケリー候補は最終的に5900万票を獲得した。これは4年前の2000年大統領選で民主党のゴア候補が獲得した5100万票を800万票、15.7%も上回る民主主義の歴史上最大の得票数のひとつとなった。しかしながら,ブッシュ大統領の方はケリー票より更に300万票も多い6200万票を獲得した。これは4年前の大統領選でブッシュ大統領自身が獲得した5046万票を実に1154万票、22.9%も上回る大きな得票数であった。ケリー候補は明らかに善戦した。しかしブッシュ大統領はケリー候補以上に選挙に強い候補であった。
大統領選の結果を決める各州選挙人獲得数はブッシュ大統領が31州286人、ケリー候補が19州とDCの計252人であった。州ごとの結果を分析すると2004年の結果は2000年の結果と驚くほど似ている。ブッシュ大統領が2000年大統領選で勝った州はニューハンプシャーを除いて2004年選挙でもすべて勝った州である。民主党のゴア候補が2000年選挙で勝った州はニューメキシコとアイオワを除いては、2004年選挙でケリー候補がすべて勝った。
2004年大統領選では18歳以上の推定有権者人口2億150万人のうち1億2230万人が得票した。全米平均の得票率は1968年以来36年ぶりの60.7%という高い数値を記録した。激戦州となったオハイオ、フロリダ、アイオワ、ウィスコンシンなどの投票率は70%を優に超えた。しかし、カリフォルニア、ニューヨーク、イリノイ、テキサスなど最初から勝敗が決まっているような州では投票率は遥かに低かった。
全米平均投票率が60%以上の高さを記録したのは、選挙の最後の争点として、イラク戦争の賛否をめぐる国民の感情がそれだけ高揚したことを物語っている。テロリズム戦争の一貫としてイラク戦争を敢行したブッシュ大統領と、手遅れながらイラク戦争に反対した反戦運動家ケリー候補との闘いは明らかにブッシュ大統領に軍配が上がった。ブッシュ大統領の再選は、2001年9月11日テロ以来ブッシュ大統領が進めてきた政策が少なくとも今後4年間は変わらなくなったことを意味する重要なものであった。
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第7章:ネオコンサーバテイブズの系譜とブッシュ政権への影響
ブッシュ政権になってから「ネオコンサーバテイブ(neoconservative.新保守主義者)」ないし「ネオコン」という言葉が一躍脚光を浴びるようになった。一時はブッシュ大統領の外交・軍事政策はすべて「ネオコンサーバテイブ」が牛耳っているかのような報道や批評が多かった。
しかしブッシュ政権内ではっきり「ネオコンサーバテイブ」と呼べる高官は、実はポール・ウオルフォビッツ国防副長官ぐらいしか存在しなかったのである。ダグラス・ファイス前国防次官、ルイス・リッビー前副大統領首席補佐官、ジョン・ボルトン前国務次官(現駐国連大使)などもしばしば「ネオコンサーバテイブ」として扱われたが、それは「ネオコンサーバテイブ」の定義を拡大した場合のことであった。「ネオコンサーバテイブ」を本来の意味で捉えた場合には、ボルトンは明らかにネオコンサーバテイブではなく、ファイス、リッビーがネオコンサーバテイブに属するかどうかも明らかではない。
ブッシュ大統領は伝統的な保守主義者(conservative あるいは paleo conservative)であって勿論ネオコンサーバテイブではない。デイック・チェイニー副大統領、ラムスフェルト国防長官なども伝統的な保守主義者であって、ネオコンサーバテイブではない。ライス国家安全保障補佐官(現国務長官)は保守主義者と同様のタカ派的外交姿勢をとってきたが、保守主義者と呼ばれることは少なく、またパウエル前国務長官も保守中道派に位置しネオコンサーバテイブには距離があった。
実はアメリカでもネオコンサーバテイブの定義は明確ではない。そもそもネオコンサーバテイブの創始者や代表者と言われる人々が「ネオコンサーバテイブ」の定義ははっきりしないと述べるのである。
「ネオコンサーバテイブ」の意味を理解するためにはその発祥と系譜を見てみる必要がある。
「ネオコンサーバテイブ」という言葉は明らかに従来の「コンサーバテイブ」と区別して使われる言葉である。アメリカはイギリスから独立したので、「コンサーバテイブ」の元々の意味もイギリスから来ている。イギリスの伝統における「コンサーバテイブ」は、18世紀のイギリスの政治家・思想家エドムンド・バーク(Edmund Burke)や19世紀のスコットランドの歴史家トーマス・カーライル(Thomas Carlyle)などが論じた「宗教的倫理観や社会的ステイタスに価値感を見出す人々」を指した。アメリカでもかつての「コンサーバテイブ」の意味はこれに近かったのではないかと考えられる。一昔前まで、保守主義を標榜する共和党が社会の上層階級や大企業や金持ちの利害を代表する党であると見られていたのは、そういうイギリスの伝統とつながりのあったことを示している。
しかしイギリスから独立したアメリカは元々自由と民主主義を尊ぶ国で、世界でも主導的な「リベラル(liberal.自由寛大な)」の国である。こういうリベラルな国においては、コンサーバテイブという言葉の評価は低く、否定的な印象を与えることの方が多かった。「時代に逆行する」という意味で「コンサーバテイブ」という言葉が用いられることが多く、それはまた「進歩的な」という意味の「プログレッシブ(progressive)」の反対語としても使われた。
アメリカの現在の「コンサーバテイブ」の原点に当たる政治家は1964年の大統領選で共和党候補になったバリー・ゴールドウオーター(Barry Goldwater)である。ゴールドウオーターは大統領選には完敗したが、彼の精神はロナルド・レーガン(Ronald Reagan)に引き継がれ、1980年のレーガンの大統領当選で華開くことになった。しかし、レーガン政権当時も「コンサーバテイブ」の定義は必ずしもはっきりせず、それをはっきりさせようという努力もなされなかった。
現代アメリカ政治において「コンサーバテイブ」という言葉に新たな息を吹き込み、「コンサーバテイブ」に前向きの積極的な意味を与えるのに成功したのは1994年の中間選挙の勝利を契機に政治の主役に登場したニュート・ギングリッチ(Newt Gingrich)元下院議長である。もともと歴史家であったギングリッチは「コンサーバテイズム(conservatism)」とは「アメリカの建国の理想、建国の父達の思想に帰って、その本来の精神を復活させ保存することである」という意味に定義し直した。アメリカの建国の理想、建国の父達の思想とは「自由」や「民主主義」や「独立」などの精神である。すなわち、アメリカの本来の「リベラル」の精神を「保存・保守」することが「コンサーバテイブ」のあるべき姿であると定義し直したのである。ギングリッチは同時に、「リベラル」という言葉も定義し直した。彼が「リベラル」と呼んだのは、「アメリカ建国の精神を忘れて現代の際限のない自由と退廃文化に漬かった人々、退廃的文化を唱導する人々」のことであった。「コンサーバテイブ」と「リベラル」をこのように定義し直すことによって初めて、ギングリッチは、アメリカ建国の精神や理想を守る「コンサーバテイブ」の方が、それを破壊する「リベラル」より道徳的に優位に立つ人々であると主張することが可能なったのである。
1990年代後半に議会で活躍したギングリッチなどの新世代の共和党政治家は、しかし、「ネオコンサーバテイブ」と呼ばれることは決してなかった。その理由は、彼らは確かに新世代の政治家ではあったが、伝統的な「コンサーバテイブ」の系譜を引いた「コンサーバテイブ」に違いなかったからである。
それに対して「ネオコンサーバテイブ」と呼ばれる人達は、実はニュート・ギングリッチなどよりは遥か以前に、伝統的な「コンサーバテイブ」とは異なったところで発祥し、「コンサーバテイブ」とは別の系譜により30ー40年かけて次第に政治的影響力を増してきた人々なのである。
「ネオコンサーバテイブ」と呼ばれる人々の原点は、かつて1960年代後半から70年代前半にかけて「ニューヨークの知識人(New York Intellectuals)」と呼ばれた人々に遡る。「ニューヨークの知識人」を代表したのは、アーヴィング・クリストル(Irving Kristol)、ノーマン・ポドレッツ(Norman Podhoretz)、ダニエル・ベル(Daniel Bell)、アーヴィング・ハウ(Irving Howe)、セイモア・マーテイン・リプセット(Seymour Martin Lipset)、エリオット・コーエン(Elliot Cohen)などのユダヤ系の知識人であった。そのうちで特にアーヴィング・クリストルやノーマン・ポドレッツなど、リベラルな思想に幻滅してリベラルな思想に批判的になっていった人々が「ネオコンサーバテイブ」と呼ばれるひとつの思想集団を形成してゆくのである。
アメリカに移住したユダヤ人の祖先は近代欧州諸国において常にリベラル派に組した。近代欧州諸国が王制や帝制から解放されて民主国家に生まれ変わる過程において、ユダヤ人共同体も解放されてゆく。ユダヤ系知識人は解放勢力の一画として重要な役割を果たした。ユダヤ人の多くがそういうリベラルの勢力に組することになったのは当然の成り行きであった。1840年から1880年にかけてアメリカに移民した25万人のドイツ系のユダヤ人の多くはそういうリベラルの伝統を引いていた。
他方1880年から1920年の40年間にアメリカに大挙して移住した250万人のユダヤ系移民の殆どは現在のポーランドとロシアの国境の南北に伸びるペイル居住区(Pale of Settlement)と呼ばれるユダヤ居住地帯からやってきた人々である。彼らはシュテッテル(shtetl)と呼ばれるユダヤ人村からポグロム(pogrom)と呼ばれる迫害を逃れるために着の身着のままでアメリカにやってきた人々である。その殆どがニューヨークのローアー・イーストサイド(Lower East Side)の貧民窟に住み着き、衣服工場の職工などになって生計を立てる。彼らは教育もなく貧しかったので、組合を形成し労働運動を展開する。そういう貧しいユダヤ系移民の心を掴んだのは民主党でありリベラル思想であった。
彼らの第二世代、第三世代の多くは大学教育を受け、社会進出の機会を作ってゆく。1932年、大恐慌の渦中に大統領となった民主党のフランクリン・ロウズヴェルト大統領は、ハーバード大学からユダヤ系法学者フェリックス・フランクフルター(Felix Frankfurter)を招き彼の弟子に当たる優秀なユダヤ系テクノクラートを多数政府に登用し「ニューデイール(New Deal)」政策を進めた。この経験を通して、ユダヤ系アメリカ人の民主党への信頼と忠誠は決定的となった。
ユダヤ系アメリカ人の経済的社会的地位は特に第二次大戦後飛躍的に向上するが、親から譲られた民主党系リベラル思想への忠誠は全く変わることがなかった。それはリベラル思想がまた、自由や平等や民主主義を尊ぶユダヤ宗教の教えと相通ずる所が多かったためでもある。
かくしてアメリカのユダヤ系移民とその子孫は、少なくとも1960年代に入るまでは殆ど例外なくリベラル系であり、政党では民主党に属していた。
そういうリベラルな民族集団に属していたユダヤ系の知識人の中のごく一握りの人々がリベラルに反旗を翻す思想運動を展開し始めた。これこそが「ネオコンサーバテイブ」の原点であったのである。
「ニューヨーク知識人」の中のアーヴィング・クリストルやノーマン・ポドレッツといった人々は1960年代中頃から「コメンタリー("Commentary")」や「ザ・パブリック・インタレスト("The Public Interest")」などの雑誌を刊行して評論活動を開始した。彼らはジョンソン大統領の「偉大な社会(Great Society)」で掲げられた行き過ぎた社会福祉プログラムや黒人優先政策などに次第に批判的な評論を展開するようになる。
中でも、黒人の大学入学に受け入れ枠(quotas)を設けることを容認したマイノリテイ優先策(Affirmative Action)は、第二次大戦前のユダヤ人入学受け入れ枠を思い起こさせる忌まわしき政策であった。既に主要大学のユダヤ系学生の数の比率が20パーセントから30パーセントを占めるようになっていた当時、受け入れ枠導入はユダヤ系学生にも適用されるのではないかとの恐れがあった。ユダヤ系知識人が受け入れ枠導入に批判的になるのは当然の成り行きであった。
他方、イスラエルの支持では一致団結していたアメリカのユダヤ人が、1967年の6日戦争以後は分裂する。リベラル系の人々はイスラエルを軍国主義的、帝国主義的、資本主義的、人種主義的といった言葉で批判するようになる。アーヴィング・クリストルやノーマン・ポドレッツなどはこうしたリベラル派のイスラエル批判にも反発を覚え、イスラエルの独立を守るためにイスラエルの軍備増強を支持し、そのために米国が強力な援助をおこなうべきことを訴える。
クリストルやポドレッツの主張は「保守的」というよりはむしろ「リベラルへの反発と批判」から発したものであった。リベラルが次第に左翼に傾いてゆくことに危機感を覚え、それに対抗するために始まったのが、将来「ネオコンサーバティズム」と呼ばれるようになる評論活動であった。
このリベラルの批判は次第に伝統的な「コンサーバテイブ」の主張と似通ったものになってゆく。政府が大きくなり過ぎることを批判し、マイノリテイ優先策の行き過ぎを批判し、ベトナム反戦運動などを通じて廃頽する性や社会モラルを批判し、社会福祉政策の行き過ぎを批判する。
しかしネオコンサーバテイブが伝統的なコンサーバテイブと一線を画するところがあった。それは宗教に対する姿勢である。伝統的なコンサーバテイブは宗教的価値観を大切にしたが、この「宗教」とは言うまでもなくキリスト教のことであった。ユダヤ系知識人の集団であるネオコンサーバテイブはキリスト教を受入れることができない。そのため、宗教に関しては、ネオコンサーバテイブは政治と宗教との分離を主張し続ける。あるいは、コンサーバティズムを宗教から切り離そうと試みる。
ネオコンサーバテイブは宗教に踏み込む代りに、社会科学的、経済学的、心理学的アプローチを重視した。それが理由でネオコンサーバテイブの主張は伝統的なコンサーバテイブの主張と微妙に食い違うところもあった。例えばネオコンサーバテイブはコンサーバテイブよりも民族や文化や習慣や言葉の多様性に寛容である。少数民族に属するユダヤ系の人々は異文化や異なった宗教への寛容さの大切なことを身をもって知っていたからである。自分達の移民体験から移民受け入れにも概して寛容である。社会保障や社会福祉政策に関してもネオコンサーバテイブは、それが行き過ぎない限りは社会の安全弁としてこれを前向きに評価する。伝統的コンサーバテイブが、社会福祉政策は人々の政府依存を増すだけで国家予算の浪費だと批判するのとは異なっている。
外交政策でも伝統的なコンサーバテイブとネオコンサーバテイブのアプローチと異なるところがある。例えばネオコンサーバテイブもコンサーバテイブと同様、ソ連に対する厳しい反共主義の立場を取った。しかし伝統的なコンサーバテイブの反共主義が主に安全保障上の戦略的理由のためであったのに対して、ネオコンサーバテイブの人々は戦略的理由に加えて人権抑圧問題を重視した。彼らはソ連国内で抑圧され囚われの身になっていた百万人の同胞ユダヤ人に支援の手を差し延べ、彼らのソ連からの自由な出国を可能にすることを目指した。
コンサーバテイブもネオコンサーバテイブも外交問題解決のために軍事力を用いることをおそれない。しかし、軍事行動の後の対応では異なる立場を取る。1990年代になってからであるが、ギングリッチなどの議会共和党保守系の政治家は、軍事行動の後、その国の政治的経済的再建に協力する「国造り(nation-building)」はやらないという方針を明確に打ち出した。たまたまクリントン政権下の1993年にソマリアで、国連軍に協力して国の再建に協力していた米軍兵士十数人が地元の軍閥アリステイードの手下やゲリラの手によって惨殺された事件があった。それをきっかけに、米軍を無駄な死から保護すると同時に、民主党に政治的に対抗する手段として民主党のような「国造り」はやらないということが共和党の政策になった。
これに対してネオコンサーバテイブは、アメリカの民主的な政治形態を世界に広げるために、軍事行動後の国の再建、すなわち「国造り」に協力することを排除しない。むしろそれこそがアメリカの外交政策の最終目的であると主張する。アフガニスタンやイラクにおいて、占領後に米軍がすぐに引き揚げず、民主国家の建設のために全面的な協力をしてきたのは、ネオコンサーバテイブの方の考え方が生かされたためである。
外交軍事分野におけるネオコンサーバテイブの考え方は、民主党リベラルのユダヤ系外交専門家の考え方に相通ずるところがある。アメリカの自由と民主主義の価値観を世界中に広げるというのは、サンデイ・バーガー国家安全保障補佐官、マデレン・オルブライト国務長官、リチャード・ホルブルック駐国連大使、スチュアート・アイゼンシュタット国務次官などクリントン政権のユダヤ系外交高官が推進した政策でもあった。
ネオコンサーバテイブの人々は、1976年の大統領選ではまだ民主党のカーター候補を支持した。しかしカーター大統領の外交政策にはネオコンサーバテイブはあらゆる意味で失望した。そこでネオコンサーバテイブは1980年の大統領選ではレーガン候補を応援する。
レーガン政権が誕生してからは、ポール・ウオルフォビッツ(国務次官補、駐インドネシア大使、国防次官を歴任)、リチャード・パール(Richard Perle。国防次官補)、エリオット・エイブラムス(Elliot Abrams。国務次官補)などのネオコンサーバテイブに属する人々が政権に入って、主に外交政策・軍事面で影響力を発揮するようになる。ただ、ネオコンサーバテイブの政策はレーガン政権の外交政策の根幹となるほどの影響力は持たなかった。
1990年代のクリントン政権では、伝統的な民主党リベラルに属するユダヤ系の人々が多数長官級、次官級、あるいは大統領補佐官の地位について、ユダヤ系の人々にとっての「黄金時代」を迎える。しかし、ネオコンサーバテイブに属する人々は在野での仕事を強いられた。ウオルフォビッツはジョンズホプキンズ大学国際関係大学院長、リチャード・パールもシンクタンクの研究員やコンサルタントを務めた。
1995年、アーヴィング・クリストルの息子で1989年から92年までダン・クエイル副大統領の首席補佐官を務めたウィリアム・クリストル(William Kristol)が、ネオコンサーバテイブの雑誌と見なせる「ザ・ウイークリー・スタンダード(The Weekly Standard)」を創刊した。90年代後半、この雑誌は在野においてネオコンサーバテイブの政治への影響力を維持する重要な役割を果たした。
ポール・ウオルフォビッツは1999年夏、テキサス州知事だったジョージ・W・ブッシュが大統領選出馬を表明して間もなく、スタンフォード大学事務長のコンドリーサ・ライス、元国防次官補のリチャード・アーミテッジなどと共にブッシュ候補の外交・軍事政策の顧問となった。2000年大統領選でブッシュが当選した後はウオルフォビッツは国防長官候補の一人に挙がっていた。最終的に国防長官職はラムスフェルトに譲ったものの、国防副長官となったウオルフォビッツの外交軍事政策立案への影響力は最初から大きかった。ネオコンサーバテイブはブッシュ政権で初めて、特に外交軍事面でアメリカの方向を変えるような影響力を発揮する機会を持った。特に、サダム・フセイン体制を打倒するというイラクに対する強硬な政策はウオルフォビッツやリチャード・パールなどが90年代から主張していた政策をそのまま踏襲するものとなった。
ブッシュ政権になってからは在野のネオコンサーバテイブに属するオピニオン・リーダーや評論家の政権への影響力も強まった。第1期前半、政権に入らないまま国防総省の国防顧問評議会会長を務めたリチャード・パールは、この評議会を舞台にしてイラク政策形成に大きな影響を行使した。評議会委員にはニュート・ギングリッチ前下院議長など共和党保守派の有力者が多数含まれていたので、彼らにネオコンサーバテイブ的な考えを浸透させるにの大いに役立った。ウィリアム・クリストルの「ザ・ウイークリー・スタンダード」はブッシュ政権の政策形成に直接影響を与える雑誌となった。ネオコンサーバテイブに属する評論家であるワシントンポストのコラミスト、チャールス・クラウトハマー(Charles Krauthammer)、レーガン政権時代にソ連との核軍縮交渉に当たったマックス・カンペルマン(Max Kampelman)などもブッシュ政権に影響力を持ってきた。高齢になったが、アーヴィング・クリストル、ノーマン・ポドレッツなども健在で、ポドレッツは2005年にブッシュ大統領からアメリカ人最高の栄誉である「自由勲章」を授与された。なお、ブッシュ大統領が2004年秋に出会ったネイタン・シャランスキーもまた、ネオコンサーバテイブに重なる思想を持った人物である。
ところで今世紀に入った頃から、アーヴィング・クリストルやノーマン・ポドレッツなどの人々は、ネオコンサーバテイブは伝統的なコンサーバテイブと融合すべきだと言い出す。両者の主張に相違がほとんどなくなったこと、ユダヤ系の人々のキリスト教に対する恐れが殆ど消滅したこと、伝統的なコンサーバテイブがネオコンサーバテイブの政策主張を次々と取り入れるようになったことなどがその理由となった。特に、ユダヤ人が警戒していたキリスト教福音派のジェリー・ファルウェル(Jerry Falwell)やパット・ロバートソン(Pat Robertson)といった指導者が例外なくユダヤ教やイスラエルに対する特別の敬意を払うようになり、実際に言動や行動でそれを示して来たことがネオコンサーバテイブの警戒感を取り払った。同時にこれは、一般のユダヤ系アメリカ人が経済でも政治でも文化でもアメリカ社会の本流の地位を占めるようになったことと重なり合っている。コンサーバテイヴィズムにおいても、ユダヤ系の人々がその本流に組み込まれつつあるということである。そういうこともあって、ポドレッツが主宰してきた雑誌「ザ・パブリック・インタレスト」は2005年4月にその役割を終えて廃刊となった。
ブッシュ大統領はキリスト教の神を信じることを公言してはばからず、善と悪とをはっきり区別し、またアメリカの上流階級に生まれたこともあって、エドムンド・バーク的な意味でのコンサーバテイブの言葉を思い起こさせる人物である。妊娠中絶や同性愛結婚に反対し、社会の秩序や名誉を重んじ、社会慈善事業・ボランテイア活動に情熱を燃やすことなど伝統的な保守色を強く持っている。
しかし外交政策においては、ブッシュ大統領は伝統的なコンサーバテイブの殻を破って、ネオコンサーバテイブの立場を取るようになった。ブッシュ大統領の外交政策は、戦争に勝つばかりでなく勝った後に自由と民主主義に基づく国家を建設することを目指す。アメリカ的な自由と民主主義の価値観を世界中に広げることを外交政策の目標とする。これを「ウィルソニアン(Wilsonian。ウィルソン大統領的な外交政策の意)」と呼ぶ人もいるが、むしろこれはネオコンサーバテイブの主張をそのまま取り入れた外交政策である。特に、9/11テロとその後のアフガニスタン戦争、イラク戦争の経験を通して、ブッシュ大統領のこの外交政策への確信は動かないものとなった。
ブッシュ大統領は再選後、政権第2期の閣僚人事でコーリン・パウエル国務長官、リチャード・アーミテッジ副長官以下国務省高官のすべてを入れ替え、コンドリーサ・ライス国家安全保障補佐官を長官として国務省に送り込んだ。これに対してドナルド・ラムスフェルト国防長官、ウオルフォビッツ副長官以下国防総省の高官は全く入れ替えず、第1期の体制をそのまま温存した。イラク攻撃を巡って、攻撃を回避しようとするパウエル国務長官と、ブッシュ大統領の意向を受けて早い時期からイラク攻撃の準備を進めたラムスフェルト国防長官との対立は有名であった。イラク占領後の予想を越える混乱で、ラムスフェルト国防長官の政権内における立場は一時悪くなり、同国防長官がブッシュ大統領に辞任を申し出たこともあった。しかし再選後のブッシュ大統領の人事は、パウエル国務長官を排除しラムスフェルト国防長官を残すものとなった。
2005年3月16日、ブッシュ大統領はウオルフォビッツ国防副長官を次期世界銀行総裁に推薦した。世銀総裁は伝統的に米国大統領が推薦した人物が就任する。ジェイムス・ウオルフェンソーン総裁の2期目の任期が同年5月31日に迫り、同総裁は退任を表明していた。この人事を聞いて、欧州諸国は当初動揺した。世界銀行がネオコンサーバテイブ的な米国の外交政策の道具に使われるのではないかと懸念したからである。しかしウオルフォビッツのロビイングが奏効して、世界銀行の理事会は2週間後の3月31日全会一致でウオルフォビッツを総裁に選出した。
ラムスフェルト国防長官率いる国防総省を温存した上で、その下のウオルフォビッツ副長官を世界銀行総裁に推薦したのは、ブッシュ大統領がウオルフォビッツが世界銀行で同じような指導力を発揮することを期待したからに他ならない。ウオルフェンソーン前総裁はクリントン前大統領とは親密な関係にあったが、ブッシュ大統領とは距離があり、第一期を通して世銀はブッシュ大統領が直接影響力を行使できない機関となっていた。ウオルフォビッツ総裁就任によって、世銀とブッシュ政権との関係はスムーズになった。
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第8章:ブッシュの世界ビジョンとレアルポリテイーク
2005年5月7日、ブッシュ大統領はラトヴィアの首都リーガの小ギルド・ホールで、バルト3国大統領、ラトビア政府代表者などを前に、欧州大陸のドイツ・ナチスからの解放60周年を記念する演説をおこなった。2日後の9日にモスクワで行われるソ連の第二次大戦勝利60周年を記念するパレードに出席する前に最初に訪問したのがラトビアであった。ブッシュ大統領はこの演説で、60年前のヤルタ会談の合意は、強国が弱小国を犠牲にしてよいというミュンヘンのヒトラーやモロトフ・リッベントロップ条約(Motolov-Ribbentrop Pact)の伝統をそのまま引き継いだ誤った合意であった、ヤルタの合意により中欧と東欧の国々の何千万人もの人々が自由を奪われソ連の共産主義独裁体制の囚われの身となった、欧州大陸はこれによって分断され、その後45年も不安定な時代を経験することになったと断じ、ヤルタ会談でソ連のスターリンの野心を抑えられなかったフランクリン・ロウズヴェルト大統領とウィンストン・チャーチル首相を暗に批判した。
ブッシュ大統領がヤルタ会談を批判したのはこれが初めてではなかった。2001年6月ワルシャワの演説で「ヤルタは自然な国境を批准せずに(人為的に)文明を分割した」と語り、2002年11月リトアニアの演説で「ヤルタを繰り返さない」と語り、2003年5月ポーランドのクラカオの演説で「欧州はヤルタの苦々しい遺産を根こそぎにしなければならない」と語り、2005年2月のブリュッセルの演説では「いわゆるヤルタの安定は常に不正義と恐怖の源であった」と語っていた。しかし、ヤルタの合意を、スターリンとヒトラーの相互不可侵条約であったモロトフ・リッベントロップ条約と同じ性格のものと見做し、ロウズヴェルト大統領やチャーチル首相があたかも東欧の人々の「自由」をソ連のスターリンに売り飛ばしたかの如く非難したのは2005年5月の演説が初めてであった。
これまで歴史家は概してロウズヴェルト大統領に好意的であった。ヤルタの合意が「結果的には」ソ連の東欧圏支配を肯定することになり、その後の長い冷戦時代を作る原因となったというのは、歴史のひとつの事実ではある、しかし当時の状況を考えればそれは止むを得ぬことであった、と歴史家は論ずる。ロウズヴェルト大統領は病んで死が近づいており、日本を降伏させるためには太平洋戦線でソ連の協力を取り付ける必要もあった、ヤルタ合意は折角ポーランドの総選挙実施を決めていたのに戦後スターリンはそれを一方的に禁じた、従ってロウズヴェルト大統領がその責めを負う責任はない、というのが歴史家の定説であった。ブッシュ大統領の演説はそういう歴史の定説に挑戦するものであった。
ブッシュ大統領のこの演説の意図のひとつは、ロシアのプーテイン大統領に対してソ連のスターリン大統領と同じ過ちをしてはならないと警告することにあった。ロシアは、第二次大戦後のソ連がバルト3国を併合する根拠に利用したモロトフ・リッベントロップ条約を廃棄することを未だに拒んでいる。それがためにバルト3国は、ロシアが将来再びバルト3国に領土的野心を抱くことを真剣に警戒している。ブッシュ大統領の演説は、ロシアがバルト3国に侵略しようとした場合、米国がバルト3国を守るつもりであるということを示唆したものでもあった。
ロシアの周辺国の多くは現在でも民主化の過程にある。バルト3国はソ連崩壊後間もなく民主主義国として独立したが、ブッシュ大統領が2005年5月ロシアの次に訪問したギルジアは2003年秋の「バラ革命(Rose Revolution)」で民主化を成功させたばかりの国であった。2004年12月にはウクライナで「オレンジ革命(Orange Revolution)」が起こり、西寄りのユーシェンコ大統領が誕生した。ブッシュ大統領は、欧州最後の独裁国と言われるベラルース(白ロシア)にも民主化を呼びかける。ロシア周辺諸国の民主化を最後まで成功させるためには米国の引き続いての後押しと保護が必要であり、それが米国の使命であり義務であるとブッシュ大統領は考える。
最近はロシアの民主化が後退していることが心配されている。この1ー2年、報道機関の統制、石油大手ユーコスの最高経営責任者コドロフスキーの投獄、州知事選挙の見送りなど自由と民主主義を制限する動きが目立っている。これに対するブッシュ政権の警戒感は強い。ロシアが今後も民主主義の道からはずれないようにするために、ブッシュ大統領は腐心する。
新しく民主化したポーランドなどの東欧の国々が、アフガニスタンやイラクの再建に極めて熱心で、独仏など西欧諸国に先んじて自国の軍隊を積極的に派遣したことはよく知られている。それは、民主化を経験したそれらの国々の指導者は、アフガニスタンやイラクなどの中東イスラム諸国にも自由や民主主義が広がることが如何に重要なことであるかを身をもって知っているからである。そういう東欧諸国の中東イスラム諸国民主化努力への協力と貢献をブッシュ大統領はひときわ高く評価する。
ブッシュ大統領は、米国を9/11テロのようなテロリズムから守り、世界からイスラム過激派のテロ根絶をするためには、中東イスラム諸国をひとつひとつ民主化していく他はないと考える。中東イスラム諸国が選挙によって選んだ民主的政府を形成し、人々が抑圧から解放され「自由」になって、個々人が自由な人生の夢を追い求められるようになって初めて、テロリズムの温床がなくなり世界からテロリズムが消滅してゆくと考える。
アフガニスタンとイラクの総選挙の成功は、イスラム諸国の人々も欧米のキリスト教、ユダヤ教圏の人々と同じように「自由」を求めていることを証明したとブッシュは考える。これまでは民主主義は根づかないと考えられてきた中東イスラム諸国の人々が欧米の人々と同じように独裁を嫌い「自由」を求めているというのであれば、中東イスラム諸国にも民主化が成功する可能性は充分にある。アフガニスタン、イラクの民主化再建の前進と執拗な民主化要求によって、実際にレバノンでもエジプトでもサウジアラビアでも民主主義的な総選挙を実施しようという動きが徐々に広がりつつある。
欧州大陸や中近東イスラム圏の民主化に「主役」を演じてきたブッシュ大統領は、しかし、東アジアの民主化のために「主役」を果たしてきたとは言えない。2002年1月29日の議会演説でブッシュ大統領は北朝鮮を「悪の枢軸国」に加えて非難したが、それ以後の北朝鮮核兵器開発・保有問題への対応は6ヶ国協議という外交的手段によって解決をはかることで一貫してきた。6ヶ国協議の参加国には民主主義国家ではない中国を加えた。しかもこの中国が北朝鮮に核兵器開発・保有を断念させるために最も大きな役割を果たすことを期待している。
しかしブッシュ大統領のこうした東アジアへの対応が欧州大陸や中近東イスラム圏への対応とは異なった原則によって進められている訳ではない。ブッシュ大統領の国家観は基本的にはひとつである。国家には善悪がある。善なる国家とは人々の「自由」と「人権」を尊重し、民主的な選挙によって国民に選ばれた政府が代表する国家である。悪なる国家とは人々の「自由」と「人権」を尊重せず、国民の意思を代表しない独裁的な支配者が支配する国家である。この、人々の「自由」や「人権」を基準にして国家の善悪を判断するブッシュの国家観は、欧州であろうと中東イスラム諸国であろうと東アジアとあろうと基本的には同じである。従って欧州や中東で適用された原則は、東アジアにおいても適用されなければならない。
9/11テロを引き起こしたのは中東イスラム圏から来たテロリストであった。そのため中東イスラム圏、特にアフガニスタンとイラクの体制転覆には長い時間をかけてはいられなかった。これに対して東アジアには中東イスラム圏のような緊急性が欠けている。北朝鮮がイランなどの中東イスラム諸国にミサイル兵器を供与しているといったスパイ情報は多々ある。しかし、北朝鮮はアメリカ本土を攻撃した訳ではなく、また北朝鮮のテロリストがアメリカ人を狙ってテロを敢行したという事例もない。北朝鮮は封じ込めておけば当面はそれで国際的には問題がない。
アメリカの潜在的脅威と考えられる中国も、北朝鮮と同じく、半世紀以上アメリカやアメリカの同盟国に直接軍事攻撃やテロをしかけたことはない。共産主義的独裁体制を取り続けているが、政権は北朝鮮のような独裁者の世襲ではなく話し合いによる指導者の交代がある。また経済の急激な発展により次第に資本主義的経営者やミドルクラスが成長しつつある。中国のWTO加盟後は中国が世界の工場のようになり、経済分野における米国と中国の相互依存度は増すばかりである。中国が台湾などへの軍事攻撃をしかけたりしない限り、米国は中国に対して軍事行動を起こす理由がない。
しかしこれらの事情にもかかわらず、中国の国内における人権抑圧、反政府・民主主義運動の弾圧、言論・宗教などの自由の弾圧などに米国は決して黙ってはいない。米国国務省の人権抑圧に関するアニュアル・レポートは毎年そういう中国の自由と人権の抑圧を糾弾し、その改善を繰り返し要求する。ブッシュ大統領やライス国務長官が、長期的には中国にも国民の総選挙によって選ばれた国民の意思を代表する政府が誕生することを期待していることに代わりはない。ライス長官の言葉を借りれば、中国もシャランスキーの「タウン・スクエア・テスト」をパスする国に変わって行くべきだということである。
中国の経済発展が続き人々の経済的自由度が増しミドルクラスがますます成長すれば、中国はいずれは現在のような共産主義的独裁体制を維持できなくなる。ロシアや東欧諸国で起こった民主革命のように、中国の一般の人々の蜂起による無血の民主革命が起こるのか、独裁体制の指導者が独裁制を維持しながら限定的な選挙の実施など民主化を段階的に進めてゆくことになるのか、あるいは中国にはロシアや東欧で起きたような政治体制の民主化が結局起こらず、独裁的な政治と自由な経済活動という相矛盾した体制が半永久的に続くことになるのかは、現時点では予想することが難しい。他方、中国の過度に劇的な変化は東アジアを動揺させることになるので、米国がそうした劇的な変化を望んでいるとは考えにくい。
ところでドイツ語の「レアルポリテイーク(Realpolitik)」という言葉は、例え相手が独裁専制国家であっても世界の安定と国益のためには仲良くつきあってゆくという「現実的な外交」のことを指す。アメリカの歴代の大統領のほとんどは「レアルポリテイーク」を踏襲してきた。特に原油産出地域にあたる中東イスラム諸国に対する外交姿勢は、原油を確保するための文字通りの「レアルポリテイーク」であった。アイゼンハワー大統領はイスラエルよりは、アラブ産油国との友好関係を開拓し維持することに力を入れた。41代ブッシュ大統領は元外交官であったこともあり、サウジアラビアのサウド家やヨルダンのフセイン国王などとは特別に親しい関係にあった。1989年6月の天安門事件の後も中国との外交関係を絶つことを拒んだ。彼も、彼を取り巻くスコウクロフト国家安全保障補佐官やジェイムズ・ベイカー国務長官なども「レアルポリテイーク」の価値を疑うところがなかった。ソ連を「悪魔の帝国(evil empire)」と呼んでソ連との対決を図った故レーガン大統領でさえ、通常の外交姿勢は「レアルポリテイーク」に近かった。
それに対してブッシュ大統領は、中東イスラム諸国を民主化して行くと言い始めてから、この「レアルポリテイーク」を可能な限り排除するするようになった。これまで、原油確保や地域の安定のためという理由で、米国を含め世界中の国が中東イスラム諸国の前近代的な独裁体制を容認し放置してきたのは誤りだったとはっきり指摘する。これまでの米国の大統領や政策でさえ、ブッシュ大統領の批判を免れない。「レアルポリテイーク」を排除するブッシュ大統領は外国の要人と会う時も、誰と会い誰と会わないかをはっきりさせる。原則として独裁者や人権を抑圧する指導者とは会わず、民主的な選挙によって選ばれた国家元首や指導者を歓迎し彼らと親交を結ぼうとする。パレスチナの故アラファット議長などとは一切会わなかった。
しかしブッシュ大統領が独裁的地位にある指導者や国王と全く会わない訳ではない。ヨルダンのアブドラ国王と頻繁に会い、サウジアラビアのアブドル皇太子や中国の江前主席をテキサス州クロフォードの自分の所有地に招き、エジプトのムバラク大統領とも会った。いくら「自由」と「民主主義」を唱導するとはいっても、その基準だけでは現実の外交は成り立たない。ブッシュ大統領とて「レアルポリテイーク」による現実的な外交を完全に排除する訳にはゆかない。
ブッシュ大統領の偉いところは、そういう独裁的地位にある指導者や国王と会う場合には「自由」と「民主主義」の拡大を本人に遠慮なく要求することである。また、少しでも「自由」と「民主主義」の拡大努力が見られた場合には、それを極力誉めて更なる拡大を鼓舞する。何でもないことのようであっても、これを要求し続けるか否かは「自由」と「民主主義」の拡大に大きな影響を及ぼす。
ブッシュ大統領がどこまで善と悪とを識別した外交を続け「レアルポリテイーク」を排除し続けられるかはわからない。善と悪との倫理の区別をはっきりさせた「モーラル・クラリテイ(moral clarity)」による外交に限界を見る人は多い。外交において余りにも善と悪とをはっきりと識別しようとするが故に、ブッシュ大統領はかえって敵対国を増やし軍事的衝突の危険を増したという批判も多い。
2006年1月パレスチナで行われた総選挙は、民主主義的選挙であったにもかかわらず、イスラエルの抹殺を政策に掲げるテロリスト集団のハマス(Hamas)に勝利を与えハマスが政府を形成するという矛盾を引き起こした。2005年12月15日のイラクの国民議会選挙では有権者の68%の1100万人を越える人々が投票したにもかかわらず、イラクの民主的な政府の形成は容易でなく、治安の改善も見られない状態が続いている。
しかしそうした後退にもかかわらず、ブッシュ大統領の「モーラル・クラリテイ」による外交姿勢への確信は全く揺らいでいない。ブッシュ大統領の考え方からゆけば、ヤルタの合意は「レアルポリテイーク」による合意であり、ロウズヴェルト大統領とチャーチル首相のアプローチは「レアルポリテイーク」そのものであった。敷延すれば、ロウズヴェルトとチャーチルが「レアルポリテイーク」を排除し、善と悪とをはっきりさせる「モーラル・クラリテイ」の外交姿勢を貫いていたならば、ソ連のスターリンがバルト3国を併合し東欧6ヶ国を共産化するのを許すことはなかったということである。当時の状況下において、果たして別の歴史を形成することが可能であったかどうかは別にして、少なくともブッシュ大統領は、自分の治世下には同じ誤りを犯したくはないと考えるのである。
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第9章:ブッシュ外交の限界
2005年8月29日、史上最大級のハリケーン・カトリーナがルイジアナ州ニューオリンズ市を直撃した。ミシシッピ川河口のデルタ地帯に建設された同市は、南はミシシッピ川、北はポンチャトレン湖に挟まれた窪地で、水位より3メートルも低い同市は堤防によって守られていた。その堤防がカトリーナの襲撃によって崩壊した。巨大なハリケーンによって6メートルも水位の上がった海水がポンチャトレン湖になだれ込み、堤防の崩壊によりニューオリンズ市の80%がまたたく間に水浸しとなった。警告を無視して市内に残っていた約10万人の市民は洪水の中に取り残された。
前日の28日(日)、ブッシュ大統領はテキサス州クロフォードの自分の所有地で夏休みの最後の日を過ごしていた。ニューオリンズに近づきつつある巨大なハリケーンに対応して、ルイジアナ州バトン・ルージュ、ワシントン、フロリダの気象センターを結んだ電話会議で対策を協議し、本土安全保障省連邦緊急事態管理局(FEMA)のブラウン局長などに、準備万端怠りなきことを指示した。
翌日の29日はカリフォルニア州のサンデイエゴで太平洋戦争勝利60周年を祝う祝典があり、ブッシュ大統領は予定通りそれに出席し、挨拶をおこなった。当初はニューオリンズ市の堤防は持ちこたえ、洪水という最悪の事態は回避したと報道されていたので、ブッシュ大統領もほっと胸を撫で下ろした。翌30日はアリゾナ州フェニックスで高齢者医療政策に関するタウンホール・ミーテイングを主宰した。しかしその日の朝までにはニューオリンズ市は完全に水に浸かっていたのである。
ニューオリンズ市内に取り残された10万人の殆どは貧しい黒人で、そのうちの3万人はフットボール用のスーパードーム、2万人はシテイ・センターの仮設宿泊施設に避難した。彼らは洪水の中で孤立し、それから3日間は充分な食べ物や飲料水のないまま地獄のような生活を強いられた。他方、個人住宅やアパートや病院などに取り残された人々も、沿岸警備隊のヘリコプターによってひとりひとり救助されるのを待つしかなかった。病院に残された身体の不自由な老人の多数が救出を待たずに死亡した。
ニューオリンズの洪水を知ったブッシュ大統領は、31日(水)アリゾナからワシントンへの帰途、大統領専用機エアフォース・ワンを低空飛行させて、上空からルイジアナ、ミシシッピのハリケーンの被害地を視察した。翌9月1日(木)ブッシュ大統領は再びワシントンからミシシッピ、ルイジアナに行き、初めて地上で被災地の現状に直面した。ブッシュ大統領が被害の甚大さに驚き、連邦政府、州政府共にそのカトリーナへの対応が全く不充分であったことを知ったのはこの時である。その日の午後、ルイジアナ州バトンルージュで同州とニューオリンズの地元政府指導者達と会い、ニューオリンズのスーパードームとシテイ・センターに避難した人々が食べ物も飲料水もないまま取り残されていることを知る。驚いたブッシュ大統領は州国防軍兵士7千人を周辺州からかき集めてニューオリンズの人々の救出に当たるように命じる。連邦政府がここで初めてカトリーナ被災地の救済のために本格的に動き始めた。
ニューオリンズ市の50万人の住民のすべてが市を脱出することを余儀なくされ、水浸しになった同市はその後3ヶ月以上全く人の住めない状態となった。ルイジアナ州とミシシッピ州のメキシコ湾岸の市町村の殆どが壊滅的打撃を受け、死者が合計1200人を越えたこの大災害に対するブッシュ政権の対応の遅れはその後厳しい批判を受け、大きな政治問題となった。ブッシュ大統領は地元をなだめ政治的批判を回避するために、その後3ヶ月間に8回も被災地を訪れ、復興が地に着くまで連邦政府の対応の指揮を取った。テキサスを初め全米の23州に散らばることになった100万人を越える被災者の生活を支えるために議会は630億ドルもの臨時の補正予算を用意した。
明るい展望と大きな期待感を持って始まったブッシュ政権第2期はこれを境に立ち往生し、米国民の不満がつのってブッシュ大統領の支持率はじりじりと下降していった。この頃からブッシュ政権には幾つもの災難が重なるようにもなった。
2005年10月、一旦指名したハリエット・マイヤース最高裁判事候補の名前を共和党保守派の反対で取り下げざるを得なくなった。同11月初め、チェイニー副大統領の首席補佐官ルイス・スクーター・リッビーがCIAスパイ名のリーク事件に絡んで起訴されて辞職を余儀なくされた。同12月には、9/11テロ後ブッシュが大統領令で始めた海外アルカイダ・メンバーの米国への国際電話の盗聴プログラムが米国報道機関に暴露され、米国民のプライバシーの侵害として強い批判を受けるようになった。2006年2月には、港湾荷揚げ専門企業デユバイ・ポーツ・ワールド社の英国P&O社の買収承認をめぐって、米国6大港の港湾荷揚げ作業がアラブ首長国連合の公社に握られることに一斉に非難の声が上がった。いずれもブッシュ大統領とホワイトハウスの政治的判断力が疑問視されるような出来事であった。
再選後、「政治資本(political capital)」を使うことを楽しみにしていたブッシュ大統領は、これらの問題への対応でまたたく間に政治資本を使い果し、一時は政権の浮揚も思うようにならなくなった。ブッシュ大統領は2006年3月末、アンドリュー・カード首席補佐官の辞任をやむなく受け入れて、後任にジョシュア・ボルトンを任命、ホワイトハウス内の人事刷新を図ることになるのである。
同じ頃、内政だけでなく外交でもブッシュ大統領の理想主義的な政策は幾つもの壁に突き当たるようになった。まずイラクの治安が一向に改善せず、駐留米軍兵士が毎月数十人ずつ命を失ってゆく状態が続いた。13万人以上の駐留軍維持費も2006年度までに総額3200億ドルの巨額にのぼるようになる。2005年10月15日の新憲法承認国民投票、同12月15日の国民議会選挙の実施により政治プロセスだけは進んだものの、米国民は次第にイラク民主化再建への忍耐力を失い、米軍の早期引き揚げを要求するようになった。12月15日の国民議会選挙そのものは1150万人もの有権者が投票して予想を越える成功を収めたにもかかわらず、2006年4月末にヌーリ・アル・マラキ首相が決まるまでに実に4ヶ月半もの月日がかかるという状態であった。新政府ができても米駐留軍の支援と米国政府の圧力がなくなればイラクは民族・宗派ごとに分裂してしまう危険が今後も常に伴う。
他方、2006年1月「民主的に」行われたパレスチナの議会総選挙では、イスラエル抹殺を政策に掲げるテロリスト集団のハマスが圧倒的な勝利を収め、ブッシュ政権を驚かせた。これでイスラエルとパレスチナの和平は当面は考えられなくなった。オレンジ革命で誕生したウクライナのユスチェンコ大統領は1年足らずの間に行政力を失い、民主化は立ち往生している。ロシアのプーテイン大統領は国内の引き締めと対外的影響力の強化を目指して独裁的色彩を増すようになった。ブッシュ大統領が再選直後暫くの間、サウジアラビアやエジプトなどの中東イスラム諸国に呼びかけた民主化努力は、ハマスのようなイスラム過激派が選挙で力をつけることが懸念されて殆ど進まなくなっている。南米ではベネズエラのヒューゴ・シャベス大統領に次いでボリビアにも反米政策を掲げたエヴォ・モラーレス大統領が「選挙で」選ばれた。加えて最近最も大きな対外問題に発展しつつあるのはイランの核開発である。アーマデイネジャド大統領が欧米とイスラエルに対する現在の挑戦的な態度を軟化させなければ、イランが次の軍事衝突の舞台となる可能性が出てきた。
ブッシュ大統領も自由と民主主義を掲げる対外政策だけでは対応できないことを知って、レアルポリテイークに後戻りすることも多くなった。2006年4月に中国の胡国家主席の公式訪問を受けた時は、貿易経済問題と、北朝鮮やイランに対する外交協力などに会談の力点を置き、宗教弾圧や人権抑圧問題に深入りすることを意図的に避けた。同じく4月にワシントンを訪問したアゼルバイジャンのアリエフ大統領は、半独裁的な政治をおこなっているにもかかわらず、アゼルバイジャンがカスピ海の原油を欧州にパイプラインで送る陸路となっていること、アフガニスタンの同盟国軍への補給基地としてアゼルバイジャンが役立つこと、イランの核開発阻止のためにアゼルバイジャンが影響力を持っていることなどの戦略的な理由でブッシュ大統領の歓迎を受けた。
ブッシュ大統領の任期があと2年半あまりしかなくなったということもブッシュ大統領の外交に限界を与えている。中東イスラム諸国全体を民主化してゆくことはこれから2年半の間に成就されることはあり得ない。これは10年、20年の計があって初めて実現してゆくものである。そうなると、ブッシュ大統領の後継者、更にはその後の大統領が誰になるかということが重要となる。次に登場する米国の大統領がブッシュ大統領の意思を失えば、中東イスラム諸国の民主化は止まり、それぞれの国が前近代的なイスラム国家、専制国家に逆戻りする可能性が高い。中東イスラム諸国全体の民主化は米国の大統領が何代にもわたって同じ政策を強く推進し続ける場合に限って実現してゆくものである。
ブッシュ大統領の外交政策は理論的にも問題のあることが明らかになってきた。パレスチナの総選挙の結果は、民主主義的選挙が必ずしも常に、自由と人権を尊重する平和国家を生み出す訳ではないことをわかりやすく示した。この例を見ると、人々の自由と人権尊重は民主主義とは切り離して考える必要があり、また民主主義というのは政治の手段であって目的ではないことがわかる。人々の間に自由や人権尊重などの考えが充分に育っていない社会では、民主的選挙を行なっても、選ばれた政府は自由や人権を尊重しない政府になりかねない。すなわち、民主主義よりは、まず人々の間に自由や人権尊重の考えを醸成することの方が先に来なければならないようなのである。イスラム教を基盤とする社会に無理に民主主義選挙を押し付けても、自由と人権を保証する国家を生み出すことは難しいかも知れない。
ブッシュ大統領の外交の限界は(1)内政の問題、(2)世界情勢の変化、(3)時間的制約、(4)理論的誤り等、色々な制約が重なって起こって来ている。加えて、米国の政治は共和党と民主党、行政府と議会の闘いの中で展開しているので、ブッシュ大統領の外交政策には常に民主党の強い抵抗や反対がある。ブッシュ大統領の支持率が落ちれば民主党はますます攻撃の手を強めてブッシュ大統領の政策上の自由を奪おうとする。2006年は議会選挙があり、政治的攻撃は激しさを増すばかりである。そういう中で自分の信念に基づく外交政策を貫くことは容易なことではない。
世界情勢の変化は基本的に、ブッシュ大統領がどうすることもできないものである。世界がブッシュ大統領の望まないような方向に進んでも、その多くのケースでは米国は何もできない。米軍が占領したイラクでさえ、主権がイラク人に返還されてからは、米国のできることは限られるようになった。米国がイラクでおこなっているのは、イラク人が自ら民主国家を形成することができるように、その環境を整備し維持し続けることでしかない。ましてや他の国々での出来事となると、米国が直接的な影響力を行使することは殆ど不可能である。
時間的制約もブッシュ大統領がどうすることもできないものである。ブッシュ大統領は残った任期という与えられた時間の中で最善の努力を尽くすしかない。ブッシュ後の外交は次の大統領の手に委ねられる。
こうした様々な制約や限界の中でも、しかし、ブッシュ大統領の基本的な外交政策は殆ど変わっていない。9/11テロの原体験は米国に生々しく生き残っている。同じ経験を繰り返さないためにはアルカイダなどの国際テロリスト集団を壊滅させるばかりでなく、最終的には中東イスラム諸国全体を民主化して人々に自由を与え、テロリズムの温床を無くしてゆく他はないという彼の信念は全く揺らいでいない。
最近のブッシュ大統領は歴史的な視点から現在の米国の葛藤を説明することも多くなった。現在多くの米国人が忍耐力を失って